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2026-01-14(Wed)

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2016-07-13(Wed)

いろいろ

■一人一人がよく考える様になれば社会がよくなるみたいなのは多分都市伝説で、「考えることは大切」と言っても、「その事について深く考える」ことが思い込み(偏り)をより強くさせることなんていくらでもあって、口出ししても人の思慮の仕方の質を変えることは困難、と言う嫌なことが頭を過った。
考える様になればよくなる、の前提には「考えれば私と同じ様な結論に至る」が、無意識に据えられてるのかな。何も考えないで生きてる人なんていなくて、誰かが考えた結論の「気に入らなさ」を「考えていない」と隠喩してしまっているのかもしれないな。
だから「あなたは何も考えてない」という批判は的外れで相手の考え方を変化させるのには適した言葉ではなく、ただのマウンティングだ。

■自分を大切にしてくれる人や、尊敬する人がいて、更にその人と足場になる価値を共有していたとして、その価値を疑うことがどんなに困難か想像してみたら、高々難易度な見積もりになった。
だから、自分が疑えていないものの見積もりの方はかなり甘いものだと思うことにした。

■世の中には、他人の創作に〇〇だから「価値がない」「無意味」「向いてない」「やめたほうがいい」、と口出しする人がまあまあいるけれど、その創作が少なくとも自分一人を救っているなら意味があるし価値があるし向いてるからやめるべきではない、と言うのが僕の意見。
しかし、その創作者がそれを仕事にすることを目的にしていることを共有している場合「向いてない」と無闇に言っている訳ではないことも当然ある。
創作する人は自分がそれをやる理由を安易に「これで食っていくため」と狭隘化させてしまうのも避けるべきだと思う。
趣味/仕事の二分法を疑い無しに受け入れている人が多い様に思える。
自分を救っているのならそれは「趣味」(やってもやらなくてもいいもの)の領域よりも生き方の問題に寄ってくる。なので、生きる手段の仕事と同等に語るべきのことなのかも知れないと言うことを考えてもいいんじゃないか、と。
■理性的であることが感情的であることより優位とされる社会では、優位への希求が感情的な所作を自分自身に対しても理性的なものと判断するように偽装して認識されている気がする。だからややこしいことになるのだと思う。
意識は常に騙されている。
その騙されている意識を根拠に様々な振る舞いをするのだから人と言うのはなんとも‥
「理性は感情より上等なもの」と言う価値が先行してそれを追うように「感情より理性が優位に働いている」と思い込むようになったのか、それ以前からそうだったのか。
多分、それ以前は理性も感情も未分だったんだろう。
つまり、先に何か設定が先行していて、それに添って物事を認識することは自分自身のことに関してもそれ以外に関してもありふていることなんだろうな。

■「それが普通でしょ」と、「普通」と言うことで「それ」に正当性を付与することができるかのような効力を錯覚している物言いがあるけれど、歴史のなかで数々の差別等の不当なことが「普通」によってなされてきたことを考えてもまだ「普通」であるこを根拠にして正当性を得れると思うだろうか。

■自分が気に入らないこととそれが間違ってることは別のことと理解しつつも、その二つに正の相関があると言う思い込みはそう簡単に拭いきれるものではないと留意しておいた方がいいのは、理解していることと、ついついやってしまうこともまた別のことだから。

■「男らしい/女らしい」が修辞として機能する割合は世代が低くなるほどやはり減るのだろうか。
自分が好意を持つ相手が肯定的な文脈で「男らしい」を自分に対して使ったなら嬉しいが、それは「男らしい」と言われることが嬉しいのではなくて肯定感が嬉しいのだけど、そんなきっかけからそれ以降「男らしい」を希求することになる人とかもいても不思議じゃない。

■他人の辛さを軽く扱うことが、自分の辛さを軽く扱われることと地続きであることを想像できない人がいるけれど、それは自分を特別と思うことが生存に有利だったからなんだろうか。

■一般的に短所と言われるものがその人に利益をもたらしたり、逆に長所と呼ばれるものが不利益をもたらすことなんていくらでもあると思うし、また同じ性質でも利益を生んだときには長所認定して、逆だとネガティブな呼び方に変えるような結果論的なところはあると思う。

■知性を真理につながる道具のようにイメージして、たった一つの本当の知性みたいのを想像している印象を受ける人もいるけれど、真理なんてどうやったって解りっこないんだから知性が多様化するのは当然の気もする。

■レッテルは他人を貶めるための道具ではなく、他人を単純化する道具だから、優越感を抱く側から劣等感を抱く側へレッテルを貼るだけでなく、逆のベクトルでも行われている。
人はたぶん自分への不利益に意識がいきやすいので優越側からのレッテルに目敏くなるのかと。他人の貼ったレッテルを真に受けるかどうかは、自意識とそのレッテルが一致するかどうかで、それが負のレッテルの場合辛いのだろう。その自意識が自体が常に他人との影響関係にあるだろうからややこしいのだけれど。

■色んなことに無自覚でいるのは日常を送るための能力だろうな。あることを自覚してしまうゆえに日常に支障をきたしている例は沢山ある訳だし。
「自覚する能力のなさ」が「日常を送る能力」として機能したり「日常を送る能力のなさ」が実は「何かを自覚する能力」から来ていたり、手持ちのフレームで「能力がある/ない」と選別するけど、能力がトレードオフだったり、ゼロサムゲームの形であることをイメージしないと見過ごすものは多い気がする。

■性格が悪いと孤立するって思っている人は多いと思うけれど、性格の悪い人が孤立してるのってあんまりみたことなくて、どちらかと言えば気の弱い(性格がいいとも言える)人の方が孤立している印象がある。
全くそんなことないのに、優しい人が「私(僕)は性格悪いから」と見当外れなこと言い出すことがあるのは、「性格が悪いと孤立する」を前提に自分が孤立している状況から演繹したのではないかなあと思ったりする。
性格が悪くても孤立することがないのは、性格の悪さがアドバンテージとして機能する部分があって、それに利益を眼差す人がいるからだろうか。
性格のいい/悪いなんてまた曖昧な話だけれども。

■アートに関わりながらわざわざ優劣のことを口にする人は、最初から何かに対して優位になるための道具としてアートを使おうとして関わり始めたか、そうではなかったのにそう言う人の挑発にのって安易に同じ土俵に上がってしまったか。
「アートは認識を変えるものだ」と言いつつ、自分をとらえてくる「優劣」のような慣習的な感覚からまず抜け出せてない物言いは少なくない。

2016-03-29(Tue)

いろいろ

■多くの人は、他人を意図的なミスリードに誘うときに詭弁を用いることより、自分が何かを受け入れる(自分を納得させる)ときの方で無意識に使っていて、何かの機会に自分の納得した理屈を展開して他人に説くときに自分のためだった詭弁が必然的に発露してしまうことの方が多い気がする。

■人は意識(「私」)の重要さを高く見積もるようにできてるんだろうな。
身体や主観体験は「私」だけの住み処と思い込むように。
「私達が主体だと思っている『意識』そのものが、別の主体から既に客体視されたモノである。」
その「主体」は意識のようには内観が不可能なものだと思う。
意識が「私」の全体と思うことは、自分の視界から見える手足や腹だけを自分の全体と思い込むようなことだと思う。

■自分に関わる何かを選択するときにわざわざバカな選択をする人はいない。「バカな選択をした(する)」と言うときは既にその選択によって何か結果が出た後や、自分は何も得することがないけれど正義感でなすことの例えとして使う。
言い換えると、人は常に自分なりの「賢い選択」をしていることになる。
自分をバカと認めることの困難さはそこから来ていて、自分をバカと認めるときにさえ「こんなにも知らない、わからないことがあるのに自分がバカだと思わないのはバカだ」と、この状況で(知らないことわからないことが膨大にあることを知ったとき)自分をバカと思わないともっとバカになってしまうからバカと認めているのだから結局「賢い選択」から逃れられていない。人はこの賢さ(人のバカさ原因?)からは逃れられない気がしている。

■「頭がいい/バカ」でも、「正しい/間違ってる」でも、「アート/アートじゃない」でも、なんでも、何かを判別するときそれを可能にする枠組みが意識上にしろ無意識のなかにしろある筈なのに、それは外部にあってまるで内省の及ばないもと考えてる人もいる。
何かを判別しているとき常にそれを可能にしている枠組みを問えることを忘れている人がいる。

■「どんな理由があろがやってはいけない事だ」と言うのが、それが起こった背景のことを考えない方便として機能してしまい、その背景を放置する温床になってることはある気がする。
案の定再発しても、まるでどんな理由があろがやってはいけない事があることと、それが起こった背景を改善することが両立しないかの様に同じように済ます。

■作品を鑑賞するとき概して手持ちのリテラリシーに沿った認知バイアスがかかる。
時間が経ってから作品を目の前にしていたときにはリテラリシーによってふるい落とされていた部分がふと浮かび上がってきて何か言いたげにしていることがある。
だけどその言いたげなことは言葉として聞き取れずに見守るしかない。

■「ある説を支持するのは、その説が自分の気に入らないものを貶めてくれているから」と言うのは無意識にやってしまってると思う、気に入らないと言う感情をもっともらしく肯定できる説を探すこと。
「何でも疑ってかかる」と言うと、「それ嘘でしょ」等を口にして人を不快にさせるようなイメージを喚起する人が多いかも知れないけれど、上の様な無意識に対抗するには、結論を急がず何でも一回保留にする態度が大切だと思う。

■「男女間の友情はない」と言う人の言い分で少しでも恋愛感情やエロ目線があったらアウトみたいなルール設定している人がいるけれど、それで言うと同性の親友に「こいつが異性だったら付き合いたかった」み
たいのが少しでもよぎったら同性間の友情もアウトになるので、僕は男性とも女性とも友情が成立してないことになる。
異性の友人に少し恋愛感情やエロ目線があっても、大切な友達だから軽率なことはしないでおこうと思うのは友情に勘定されないのか。(大切な人じゃなくても軽率なことはダメなのはわかるけど)
友情か恋愛か、と言う逡巡が可能な時点で友情が成立してると言える。
少しの恋愛感情やエロ目線も友情と両立しないと言う考えは何処から来てるのだろうか。男女間の友情が成立すると困る人でもいるのだろうか。

■自分の認識する物事は何のバイアスのかかっていないニュートラルなものと思いがちだけれど、事実は偏見に添って認識される。
なので、事実に直面すれば偏見が払拭されると言うのはフィクションで、余程気を付けないと、むしろ事実は偏見を強化する。
「誤解する人はどこまでいっても誤解する」のは、「事実は偏見に添って認識される」の典型的な例なんじゃないか。
自分が忌避するものの性質と地続きのものが自分のなかにあることを認めたくないと言う感情が自分の性質を把握する確かさを鈍らせている一つで、例えば、「偏見は悪いことだ」と言う標語が「自分のなかには偏見はない」と言う安易で短絡的な落としどころを用意してしまう。
「〇〇は悪いことだっ」と言ったときに〇〇は「悪いこと」と言う部分から悪意を伴ってなされると言うイメージを想起して、〇〇と悪意がセットと思い込み、更に悪意がない限り〇〇もしてないと言う思い込みもあるのかもしれない。

■「誰も何もわかっちゃいない」的なことで済ませようとしがちになるのは頭の働きが鈍くなっているとき。

■広い知識を得て成長することより狭い経験をして育つことの方が先行してる。

2016-02-11(Thu)

いろいろ

■自分がポシティブだとかネガティブだとかを気にする人は無数にいるけれど、何らかの実績を出した人がポシティブなら、「あの人はポシティブだったから(何度失敗しても挑戦し続けれた、だから)成功した」と、実績を残した人がネガティブだったら「あの人はネガティブ(で警戒心が強くて常に予防策を設けることを怠らなかった、)だから失敗しなかった」と、どっちにしろ後から取って付けたように説明できるので、先にポシティブ(ネガティブ)だから成功/失敗する、幸福/不幸になると結論付けるのも只の日常会話だから気にすることないのではないかと思った。
あと、例えば「ポシティブな人は楽天家で予防策を考えないから失敗する」と言ったのに対して、「そう言うのはポシティブとは言わない」と言う風に、個々人でその内容を選り分けれてしまうので目の粗いザルのように機能してないように思える。
続いて、成功した人が成功したものに対してポシティブなことが多いのは、成功した後だから当たり前で、それはポシティブだから成功したんじゃなくて、成功したからポシティブになれた(のかもしれない)。

■恋愛の内容を共依存か共存かって言葉で表現するような言説があるけれど、結局子育てや生活、二人で何か経営する等何らかの共闘がないと依存関係に終わり易いのではないかって、愛や恋に縁遠い僕がぼーっと思った。

■人が素朴に自明だと思い込んでいるモノの確実さを疑えないのは、自分の足場を失わないための能力なのかも。
自分の何気ない考えと言うのは、何か独立したロジックがあってそれによって正誤を判断してるのではなくて、自分の足場になっているモノが先行していて、それに沿った答をだして、更に後追いのようにその答を正当化するロジックを組み立てているってイメージした方が正しい気がする。
以後その答をふるいに使ってひたすらその自説を強化するような情報をコレクションしていくか、自ら出した回答から自分の足場の正体を探ろうとするか。

■社会を円滑に駆動させるために現行の社会の価値を刷り込まれるのだから、運悪くその価値の物差しの下位に位置付けられ、更に大人になっても価値を読み直し損ねたり、物差しを相対化し損ねた末、こぼれ出たものの受け皿は社会が用意しなければ、と思うのだけど。
そう言うものをリーズナブルに済ませようとするための方便として機能するときの「努力」と言う言葉。

■人は「必ず到達できる幸せがどこかにある」と生理的に思い込むようになっているけど、現状のままでいる不快感をより早く解消(しようと)するために既存の価値に反射的に飛び付くのは合理的なのかも。

■概して「身勝手さ」が常に少数派の持ち物と思われていることが差別的な気がする。

■あるものが当たり前になればなるほど、そのあるもの自体が見えにくくなって(透明化して)しまうことが、色んなことの説明を困難にしてる。

■想像力を持つって言うのは、自分には想像力がない(想像できない部分がある)と言う想像から始まるんだと思う。

■勝者と敗者を分けるシステムは、ある一定の生産率を上げると同時に敗者と言うラベルを拒否するために弱音を吐けない環境としても機能してる。
これは、「横並びにしてしまうと才能の芽を摘んでしまうことになる」と言う話と対立する様に見えるけど、相容れないと言う思い込みするような思考みが、直接才能を去勢するわけでないけど、そのような思い込みをする定型的な思考は、例えば誰かの研究に対して「こんなもの何の役にもたたない、無駄だから予算を打ち切れ」とか、有用/無用が自明だと思い込む別の定形的な思考になって才能を去勢しているんじゃないかって言う根拠のない霊感が働く。

■対話の不成立は言葉が正確に使われていないことによって起こってると思われがちだけど、それより遥かに文脈の不共有によって起こってる。
いくら一つ一つの言葉を正確に積み上げていっても文脈を共有してなきゃ話が通じないし、逆に共有してたら言葉が雑(主語なし等)でも通じる。
でも多分、一番多いパターンは「共有したくない」と言う心理的なものだと思うけど。
そう言う心理的なもののメタファーとして「言葉を正確に使ってないからわからない」が使われているのかも。

■年々ハロウィンが盛り上がってクリスマス下がって肩をならべるくらいの気がする。
クリマスの恋人同士の個対個の過密な関係性に疲れていて、皆と盛り上がるハロウィンの均質的で気楽な関係性が選ばれているのか。

■自分は人見知りだから大目に見てと言う人が他人の人見知りに不寛容だったりすることは何度かみてきた。
人見知りに限らず「私はAだから大目にみて」と言うときは、まず自分が他人のAに寛容であるかを考えないと、「私だけ大目にみて(特別扱いして)」と言っているのと変わらないと思うけど。

2015-12-22(Tue)

いろいろ

■人が「無意味」と言うときニュートラルなもの(こと)を指さないだろう。何らかのマイナスな意味が「無意味」の像を結んでいる。無意味にも意味を付加せずにはいられないことは、人の「その能力(性)から逃れられなさ」を表している気がする。
無意味が無価値と同義で使われているなら、意味は価値と同義なのだろうか。

■作品や制作、展示等の活動を自分語りの道具や手段にしているタイプの作家に、ふと「自分は何してるんだろう」と冷める瞬間があって、それと葛藤して、それでもそうせざる得なくてそうしているのかも、と想像したらグッときた。
制作しつつそれを何処にも発表しない最近の自分は、作品の道具化や制作、展示の手段化を極端に避けていて、さっきの書いたタイプの作家の裏面なだけで、投影的にグッときたのかも。

■同じ絵(展示)を観て印象(感想)がこんなにもバラバラなのに、他人を自分の投影で推し量ることが有効だなんて思える訳ない、と思った。

■知らないことを知っているつもりになる(無意識に知ったかぶりをしてしまう)脳の誤動作があるみたいだど、もしかしたらそれは日常生活に差し支えないものにせよ、少なからず誰にでもある適応力の類いなんじゃないかって思った。
世界から抽象したものに輪郭を持たせるため、最低限トートロジーでも「理解」に留め続ける能力なんじゃないか。
それがないと常にゲシュタルト崩壊みたいになってしまうんじゃないか。なんて、思った。

■「言葉は全てメタファーである」って、「例えば『痛い』と言う言葉は『痛み』そのものではない。つまり、『痛い』は『痛みを感じている現象そのもの』のメタファーである。」と言う理解だけど、「人間とは(我々は)、言葉である」と言う言葉と合わせると、人はメタファーで生きていると言うことになる。
「人間とは言葉である」と言うのは腑に落ちなかったけど、「人間はメタファーである(で生きている)」ならしっくりくる。しっくりくるってだけの話だけど。

■現行の社会が他者承認に偏重してるのは、資本主義的価値が隆盛していて、資本主義の性格は他者承認的なこともあるかな。

■人に好かれる/嫌われるが自分のどうにかできることの圏内にあることだと思っていると人間関係が辛いものに傾くのではないか。最初から自分がどうにかできるものではないと思っていたら少しは楽になるんじゃないか。
どうにもできない辛さは、どうにかできることだと思っていても結局くるのだから。

■主体が何かをコントロールすることがあっても、主体は主体そのものの有り様をコントロールできない。
例えば、作家になりたいと思って作家になるよう行動して、結果として作家と呼ばれて、それは一見コントロールしているように見えるけれど、しかし最初の「作家になりたい」と言う思いは「消防士になりたい」に置き換えるようコントロールできたかだろうか。

■人が、自分は周りの様々なことをコントロールできていると錯覚するのも、そう思い込むことで少しでも自分の存在意義をそのことに見出だして、自分を救ってるんじゃないかと思えてきた。
しかしそう思うのも、自分が今なんとなく行き着いてる結論を貧乏性的に汎用してるだけなのかも知れない。
まあ、自分のなかで理屈の整合性のある結論なのかも知れないけど。
人は自分のそんなことも知れない。
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鳥はとびつつ老いてゆくのみ

Author:鳥はとびつつ老いてゆくのみ
かく撃ち抜かれたる兵士の眼

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