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2016-03-29(Tue)

いろいろ

■多くの人は、他人を意図的なミスリードに誘うときに詭弁を用いることより、自分が何かを受け入れる(自分を納得させる)ときの方で無意識に使っていて、何かの機会に自分の納得した理屈を展開して他人に説くときに自分のためだった詭弁が必然的に発露してしまうことの方が多い気がする。

■人は意識(「私」)の重要さを高く見積もるようにできてるんだろうな。
身体や主観体験は「私」だけの住み処と思い込むように。
「私達が主体だと思っている『意識』そのものが、別の主体から既に客体視されたモノである。」
その「主体」は意識のようには内観が不可能なものだと思う。
意識が「私」の全体と思うことは、自分の視界から見える手足や腹だけを自分の全体と思い込むようなことだと思う。

■自分に関わる何かを選択するときにわざわざバカな選択をする人はいない。「バカな選択をした(する)」と言うときは既にその選択によって何か結果が出た後や、自分は何も得することがないけれど正義感でなすことの例えとして使う。
言い換えると、人は常に自分なりの「賢い選択」をしていることになる。
自分をバカと認めることの困難さはそこから来ていて、自分をバカと認めるときにさえ「こんなにも知らない、わからないことがあるのに自分がバカだと思わないのはバカだ」と、この状況で(知らないことわからないことが膨大にあることを知ったとき)自分をバカと思わないともっとバカになってしまうからバカと認めているのだから結局「賢い選択」から逃れられていない。人はこの賢さ(人のバカさ原因?)からは逃れられない気がしている。

■「頭がいい/バカ」でも、「正しい/間違ってる」でも、「アート/アートじゃない」でも、なんでも、何かを判別するときそれを可能にする枠組みが意識上にしろ無意識のなかにしろある筈なのに、それは外部にあってまるで内省の及ばないもと考えてる人もいる。
何かを判別しているとき常にそれを可能にしている枠組みを問えることを忘れている人がいる。

■「どんな理由があろがやってはいけない事だ」と言うのが、それが起こった背景のことを考えない方便として機能してしまい、その背景を放置する温床になってることはある気がする。
案の定再発しても、まるでどんな理由があろがやってはいけない事があることと、それが起こった背景を改善することが両立しないかの様に同じように済ます。

■作品を鑑賞するとき概して手持ちのリテラリシーに沿った認知バイアスがかかる。
時間が経ってから作品を目の前にしていたときにはリテラリシーによってふるい落とされていた部分がふと浮かび上がってきて何か言いたげにしていることがある。
だけどその言いたげなことは言葉として聞き取れずに見守るしかない。

■「ある説を支持するのは、その説が自分の気に入らないものを貶めてくれているから」と言うのは無意識にやってしまってると思う、気に入らないと言う感情をもっともらしく肯定できる説を探すこと。
「何でも疑ってかかる」と言うと、「それ嘘でしょ」等を口にして人を不快にさせるようなイメージを喚起する人が多いかも知れないけれど、上の様な無意識に対抗するには、結論を急がず何でも一回保留にする態度が大切だと思う。

■「男女間の友情はない」と言う人の言い分で少しでも恋愛感情やエロ目線があったらアウトみたいなルール設定している人がいるけれど、それで言うと同性の親友に「こいつが異性だったら付き合いたかった」み
たいのが少しでもよぎったら同性間の友情もアウトになるので、僕は男性とも女性とも友情が成立してないことになる。
異性の友人に少し恋愛感情やエロ目線があっても、大切な友達だから軽率なことはしないでおこうと思うのは友情に勘定されないのか。(大切な人じゃなくても軽率なことはダメなのはわかるけど)
友情か恋愛か、と言う逡巡が可能な時点で友情が成立してると言える。
少しの恋愛感情やエロ目線も友情と両立しないと言う考えは何処から来てるのだろうか。男女間の友情が成立すると困る人でもいるのだろうか。

■自分の認識する物事は何のバイアスのかかっていないニュートラルなものと思いがちだけれど、事実は偏見に添って認識される。
なので、事実に直面すれば偏見が払拭されると言うのはフィクションで、余程気を付けないと、むしろ事実は偏見を強化する。
「誤解する人はどこまでいっても誤解する」のは、「事実は偏見に添って認識される」の典型的な例なんじゃないか。
自分が忌避するものの性質と地続きのものが自分のなかにあることを認めたくないと言う感情が自分の性質を把握する確かさを鈍らせている一つで、例えば、「偏見は悪いことだ」と言う標語が「自分のなかには偏見はない」と言う安易で短絡的な落としどころを用意してしまう。
「〇〇は悪いことだっ」と言ったときに〇〇は「悪いこと」と言う部分から悪意を伴ってなされると言うイメージを想起して、〇〇と悪意がセットと思い込み、更に悪意がない限り〇〇もしてないと言う思い込みもあるのかもしれない。

■「誰も何もわかっちゃいない」的なことで済ませようとしがちになるのは頭の働きが鈍くなっているとき。

■広い知識を得て成長することより狭い経験をして育つことの方が先行してる。
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2016-02-11(Thu)

いろいろ

■自分がポシティブだとかネガティブだとかを気にする人は無数にいるけれど、何らかの実績を出した人がポシティブなら、「あの人はポシティブだったから(何度失敗しても挑戦し続けれた、だから)成功した」と、実績を残した人がネガティブだったら「あの人はネガティブ(で警戒心が強くて常に予防策を設けることを怠らなかった、)だから失敗しなかった」と、どっちにしろ後から取って付けたように説明できるので、先にポシティブ(ネガティブ)だから成功/失敗する、幸福/不幸になると結論付けるのも只の日常会話だから気にすることないのではないかと思った。
あと、例えば「ポシティブな人は楽天家で予防策を考えないから失敗する」と言ったのに対して、「そう言うのはポシティブとは言わない」と言う風に、個々人でその内容を選り分けれてしまうので目の粗いザルのように機能してないように思える。
続いて、成功した人が成功したものに対してポシティブなことが多いのは、成功した後だから当たり前で、それはポシティブだから成功したんじゃなくて、成功したからポシティブになれた(のかもしれない)。

■恋愛の内容を共依存か共存かって言葉で表現するような言説があるけれど、結局子育てや生活、二人で何か経営する等何らかの共闘がないと依存関係に終わり易いのではないかって、愛や恋に縁遠い僕がぼーっと思った。

■人が素朴に自明だと思い込んでいるモノの確実さを疑えないのは、自分の足場を失わないための能力なのかも。
自分の何気ない考えと言うのは、何か独立したロジックがあってそれによって正誤を判断してるのではなくて、自分の足場になっているモノが先行していて、それに沿った答をだして、更に後追いのようにその答を正当化するロジックを組み立てているってイメージした方が正しい気がする。
以後その答をふるいに使ってひたすらその自説を強化するような情報をコレクションしていくか、自ら出した回答から自分の足場の正体を探ろうとするか。

■社会を円滑に駆動させるために現行の社会の価値を刷り込まれるのだから、運悪くその価値の物差しの下位に位置付けられ、更に大人になっても価値を読み直し損ねたり、物差しを相対化し損ねた末、こぼれ出たものの受け皿は社会が用意しなければ、と思うのだけど。
そう言うものをリーズナブルに済ませようとするための方便として機能するときの「努力」と言う言葉。

■人は「必ず到達できる幸せがどこかにある」と生理的に思い込むようになっているけど、現状のままでいる不快感をより早く解消(しようと)するために既存の価値に反射的に飛び付くのは合理的なのかも。

■概して「身勝手さ」が常に少数派の持ち物と思われていることが差別的な気がする。

■あるものが当たり前になればなるほど、そのあるもの自体が見えにくくなって(透明化して)しまうことが、色んなことの説明を困難にしてる。

■想像力を持つって言うのは、自分には想像力がない(想像できない部分がある)と言う想像から始まるんだと思う。

■勝者と敗者を分けるシステムは、ある一定の生産率を上げると同時に敗者と言うラベルを拒否するために弱音を吐けない環境としても機能してる。
これは、「横並びにしてしまうと才能の芽を摘んでしまうことになる」と言う話と対立する様に見えるけど、相容れないと言う思い込みするような思考みが、直接才能を去勢するわけでないけど、そのような思い込みをする定型的な思考は、例えば誰かの研究に対して「こんなもの何の役にもたたない、無駄だから予算を打ち切れ」とか、有用/無用が自明だと思い込む別の定形的な思考になって才能を去勢しているんじゃないかって言う根拠のない霊感が働く。

■対話の不成立は言葉が正確に使われていないことによって起こってると思われがちだけど、それより遥かに文脈の不共有によって起こってる。
いくら一つ一つの言葉を正確に積み上げていっても文脈を共有してなきゃ話が通じないし、逆に共有してたら言葉が雑(主語なし等)でも通じる。
でも多分、一番多いパターンは「共有したくない」と言う心理的なものだと思うけど。
そう言う心理的なもののメタファーとして「言葉を正確に使ってないからわからない」が使われているのかも。

■年々ハロウィンが盛り上がってクリスマス下がって肩をならべるくらいの気がする。
クリマスの恋人同士の個対個の過密な関係性に疲れていて、皆と盛り上がるハロウィンの均質的で気楽な関係性が選ばれているのか。

■自分は人見知りだから大目に見てと言う人が他人の人見知りに不寛容だったりすることは何度かみてきた。
人見知りに限らず「私はAだから大目にみて」と言うときは、まず自分が他人のAに寛容であるかを考えないと、「私だけ大目にみて(特別扱いして)」と言っているのと変わらないと思うけど。

2015-12-22(Tue)

いろいろ

■人が「無意味」と言うときニュートラルなもの(こと)を指さないだろう。何らかのマイナスな意味が「無意味」の像を結んでいる。無意味にも意味を付加せずにはいられないことは、人の「その能力(性)から逃れられなさ」を表している気がする。
無意味が無価値と同義で使われているなら、意味は価値と同義なのだろうか。

■作品や制作、展示等の活動を自分語りの道具や手段にしているタイプの作家に、ふと「自分は何してるんだろう」と冷める瞬間があって、それと葛藤して、それでもそうせざる得なくてそうしているのかも、と想像したらグッときた。
制作しつつそれを何処にも発表しない最近の自分は、作品の道具化や制作、展示の手段化を極端に避けていて、さっきの書いたタイプの作家の裏面なだけで、投影的にグッときたのかも。

■同じ絵(展示)を観て印象(感想)がこんなにもバラバラなのに、他人を自分の投影で推し量ることが有効だなんて思える訳ない、と思った。

■知らないことを知っているつもりになる(無意識に知ったかぶりをしてしまう)脳の誤動作があるみたいだど、もしかしたらそれは日常生活に差し支えないものにせよ、少なからず誰にでもある適応力の類いなんじゃないかって思った。
世界から抽象したものに輪郭を持たせるため、最低限トートロジーでも「理解」に留め続ける能力なんじゃないか。
それがないと常にゲシュタルト崩壊みたいになってしまうんじゃないか。なんて、思った。

■「言葉は全てメタファーである」って、「例えば『痛い』と言う言葉は『痛み』そのものではない。つまり、『痛い』は『痛みを感じている現象そのもの』のメタファーである。」と言う理解だけど、「人間とは(我々は)、言葉である」と言う言葉と合わせると、人はメタファーで生きていると言うことになる。
「人間とは言葉である」と言うのは腑に落ちなかったけど、「人間はメタファーである(で生きている)」ならしっくりくる。しっくりくるってだけの話だけど。

■現行の社会が他者承認に偏重してるのは、資本主義的価値が隆盛していて、資本主義の性格は他者承認的なこともあるかな。

■人に好かれる/嫌われるが自分のどうにかできることの圏内にあることだと思っていると人間関係が辛いものに傾くのではないか。最初から自分がどうにかできるものではないと思っていたら少しは楽になるんじゃないか。
どうにもできない辛さは、どうにかできることだと思っていても結局くるのだから。

■主体が何かをコントロールすることがあっても、主体は主体そのものの有り様をコントロールできない。
例えば、作家になりたいと思って作家になるよう行動して、結果として作家と呼ばれて、それは一見コントロールしているように見えるけれど、しかし最初の「作家になりたい」と言う思いは「消防士になりたい」に置き換えるようコントロールできたかだろうか。

■人が、自分は周りの様々なことをコントロールできていると錯覚するのも、そう思い込むことで少しでも自分の存在意義をそのことに見出だして、自分を救ってるんじゃないかと思えてきた。
しかしそう思うのも、自分が今なんとなく行き着いてる結論を貧乏性的に汎用してるだけなのかも知れない。
まあ、自分のなかで理屈の整合性のある結論なのかも知れないけど。
人は自分のそんなことも知れない。

2015-10-22(Thu)

いろいろ

■他人の理解できないことを「非常識」と言う単純なモノに落とし込むのは、常識/非常識と言う曖昧な(自分でモデリングできてしまう)ものを持ち出して、他人の解らなさ(他人との違い)を、自分との間にある闇ととらえ、それを見えないようにパーテーションするためなのじゃないかって思えてきた。
だから、常識/非常識をよく口にする人ほどその都度線引きし直しているように見えるのではないか、と。
他人とのどうしょうもない違いをニヒリズムの根拠としてしまうか、世界の豊穣さを見るか、この世の基本が掴み所ないと息苦しく目眩を起こしてしまうのでそこに蓋をするのか、掴み所のないものだからこそ息が詰まらずにいれるのか。

■「男らしさ」の条件に「他人に男らしさを要求しない」と言うのを追加した方がいいと思うし、実際ぼくのなかで、他人に男らしさを要求してるのを見てその人に男らしさポイントが減点されたことはあれども加点されたことはない。
男らしさと言う言葉が好きではないが、強いてイメージを上げると「自分の信条を粛々とに実践している人」で、それを口に出したとたんに(ましてや他人に押し付けたとたんに)「男らしさ」ではなく悪印象の「マッチョ」の方になる。
他人にそれを要求したら、それを享受する方にまわるので、それから遠退くことにると思うのだけど。
そして、男らしい外貌を振る舞ってもいざというときに期待されるものを発揮するかは別の話。
「男らしい」が好きでないのは賛辞する言葉に特定の性を用いるのがバカっぽいから、と言うシンプルなもの。

■「悪人がいくら害悪を及ぼすからといっても、善人の及ぼす害悪に勝る害悪はない」とニーチェが言ったらしいけど、この世の悪いことの大半が善意によって起こってるなら、悪人を滅すると言うモデルの正義だけでは悪いことの大半がなくならなくて、目先の善悪にとらわれず、どんな形だろうと結果として悪いことが起こらないと言うモデルのシステムを築く正義も、両方バランスよく必要だろうけど、正義とは他の正義と相容れないところがあるから、悪人を滅する正義が、滅さない別のモデルを認めずに悪人を滅すると言うものに偏重している気がする。

■好き嫌いの判断を別の判断に横滑りさせているものは氾濫している。
例えば、好きなものを本物といい、気に入らないモノを偽物とする、等。
更に好き嫌いが自分のしてきたこと(選択、その結果)に合わせてモデリングされている場合も多いだろうから回り回って自己肯定していることになる。
人は無意識に負荷を緩和させることを常に実践している。
意識に上がってきたものは自分を救い終えた痕跡(、残滓)と言う側面が強い気がする。

■一つの制作のなかで、ミメーシス(先行するイメージを再現するもの)と、シミュラークル(制作そのものが表現されるものを生成するもの)は、混ざりあっていて分け難いと思う。再現であってもそこに創発的にシミュラークルが生まれるだろうし。
エスキースとタブローを見比べたとき、歓迎された創発と、修正されるべきものと見做されたエラーから、その作家の選考基準がぼんやりと浮かび上がってくる。
それは、「どんな答を出すかより、どんな問いをするかによってその人の人となりが見えてくる」と言う類いのものと似ているのかも。

■「神話や、お伽噺が結局のところ何が言いたいかわからない」と言うのと「アートはわからない」と言うのは似ているのかも。
そこには現行の価値からの眼差しの外部は欠落しているという発想がなく、「この眼差しが全てだ」と言うもの。
欠落とは常に満たされているもののなかにあるのかも。

■書道のように文字が観る対象になる文化が成立するのは、漢字が表意文字であることや、漢字の成り立ちの多くが象形文字であったりするからだろうか。
表意文字文化圏では大脳右半球や視覚野が特異に活性化しているらしいけれど、それは表意文字文化では非言語的知性に傾向しやすく、表音文字文化は言語的知性に傾向しやすいと言うことかな。
日本で顔文字や絵文字が盛んになったのも、表意文字文化だからだろうか。

■自分のやってることに誇りを持つことと、自分が属してると思っているもの以外を貶めることが同じことだと信じている人がいる。

■よくあるアンケートで、好きな異性や、嫌いな異性の条件みたいなのは、たぶん過去の恋愛のパートナー選びの反省点で、実際は条件なんかで好きになってなくて、寧ろ過去の付き合ったタイプの傾向がでてて、皮肉にも嫌いな条件(反省点)を持ってる方に惹かれる可能性の方が高いのじゃないかなって思った。

■「無意識」は合理主義にとって受け入れ難いものなんだろう。無意識を前提にすれば合理性が演繹できないないのだから。合理性は常に限定合理性なんだと思うのだけど。

2015-07-03(Fri)

いろいろ

■自由意志が前提の場合、加害側が犠牲者的に見られることはないから、加害の前段階に犠牲者のレッテルを貼る方法のひとつとして、虐待の定義の拡大、多様化があるのかもしれない。
そうすると、責任が加害者からその親へ横滑りしただけとも言えるけれど‥

■人が事を把握する(振り返った)とき物語を作ってしまうこと自体が、創発的(エラー)な気がするのだけれど、その創発(エラー)は作品と別のところで動いているから、そっちに目が行くと作品を見てないことになるのか。
例えば、「自分は何故この作品を作ったのだろう」と考えると、おおよそそこには「物語」が捏造される訳だけれども、それはその作品とは関係ないもう一つのクリエイティブが発生して、その作品に近づいた気になるけれど、結果的にそこからは遠退くことになるのか。

■価値観の変容と言うのは諸刃の剣だ。自分を苦しめていた足枷の様な価値が壊れてゆき解放されることもあれば、自分が寄る辺としている価値が崩れ去り足場を失うおそれもある。
今現在の自己を固定的なモノと、無意識に前提して、それにあわせて価値を取捨選択していくのだろうか。
逆に、変容する自己を前提にしている場合は何を基準に価値を選択しているのか。
理屈の整合性だろうか。
それにしたってなんらかの価値が先行していないと選べない。
理解できるモノの方に価値があると考える人と、理解できないモノに惹かれる人といるけれど、たぶん前者は足場を失う恐怖が強いか、現行の社会の価値があまり足枷にならないマジョリティーなんだろう。後者は逆。
自分の価値に添った行動をするのか。自分の行動(またはその結果)に添った価値を形成していくのか。
たぶん相互的なんだろうけど。

■「わからない」がネガティブに用いられるのは、「全てのことはわかるようになるもの」を前提している不遜さからきている。

■かつて、西洋は非西洋を理解する為のモデルとして、進化論を文化に応用させ、西洋を進化の先端に据えて非西洋をその進化の途中のモノとするモデルを選んだ。
未だにその弊害は散在していると思う。

■権力的なフレーム(価値観)に去勢された人が、そのフレーム(価値観)を用いて別の誰かを去勢しようとする。

■自分が属する文化や生活様式に合わせて自分自身がモデリングされてるいると言う感覚が抜け落ちていて、普遍的なモデル(人間像)を錯覚し、更にそれに自分(達)を投影する。そんな目差しからは「あらゆる他者より本質的に(自分[達]が)優れている」と言う選定結果になるのは当然だと思う。
つまり、想像力のなさから来る前提の誤謬。
自分が文化を選んだのではなく、自分が文化に選ばれた(たまたまそこに生まれた)と言うモデルを想像した方が的確な気がする。
何でも自分が選択していると思いたいと言うところがあるのかも。

■「あの人は何がしたいの?」と言う目的の不明さのなかには、目的と手段をとらえ違うと言う誤謬があると思う。
「あの行為はどんな目的のためのモノ(手段)か」と限定的に考えると、「その(あの)行為」自体がその人にとって目的である場合に、何も見えてこない。
その場合、多分そこには「私にとってあの行為は目的になりえない」と言う他者概念の希薄さか、自己肥大による他者性への不感症を起こしているんじゃないか。

■虚しさを「心にぽっかり穴があく」と表現することがあるけれど、あれは場面場面で穴が空く訳ではなくて、常態として穴は空いているのだけれども、日常的にはそのことを忘れていて、何かをきっかけに穴が空いていることを思い出す、それを「虚しい」と言うような気がする。
そんな気がするのは僕が「虚しさ」を贔屓しているからだろうけれど。
贔屓しているからこそ、安易なニヒリズムは好きではない。

■「一発ヤレただけで儲けモノ」と男が下品に振る舞ったもののなかには、女が自分を傷付ける道具として己が利用されたことに気づいていて、そのことから目をそらすための、そんな粗暴さを装った弱さも転がっているんじゃないか。
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鳥はとびつつ老いてゆくのみ

Author:鳥はとびつつ老いてゆくのみ
かく撃ち抜かれたる兵士の眼

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