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2014-03-21(Fri)

いろいろ

■望み通りにならないと予測したことに「負のラベリング」をして自分の気持ちにケリをつける、と言うことあると思う。例えば、「あの女はどうせ中身は空っぽだ」と言うように。

■おびただしい矛盾を抱えつつ、認知的不協和(矛盾)には耐えられない性質だから、矛盾に気付かないように無意識が色々(勝手に)バイアスかけくれている(帰属錯誤等)。
その事を前提に話さ(考え)ないと。
だけど同時に、「意識」は「無意識の氷山の一角」程度らしいから、自分のことを全てを明らかにするのは無理があることも前提にしなければ。

■「書く」ことが「聞くこと」や「読むこと」の延長で、能動(発信)ではなく、受動的であることはある。その時、「伝わること」は副産物と言うことになる。
では「描く」ことも受動性に基づいたものだと言うことがあるんじゃないか、「描く」ことが「表現する」と言う能動に寄るものじゃなくて。そうすると展示等、人目にさらすことは副産物となる。
そう言ってしまうと、「見せる」ことが前提じゃないものなんて「見せられる方はたまったものじゃない」となることはあるかもしれない。そうなると今度は、受け手の「受動/能動」が問われるのかも、「見せられる」と言う受動か「見る(見に行く)」と言うと能動か。
「見せられる(受動性)」とは一体どういう状況なのか。これは何が前提になってるんだろう。
「受け手を問うことが失礼」と考えるのは、やはり受け手を「ステレオの消費者(お客様)」に落とし込んでいると思う。
作家は受け手を十把一絡げに「お客様」(ステレオタイプの消費者的態度)と見ることがあるかもしれないがそれは逆に失礼だと思う。

■「良くないことが起きた」と言う出発を同じにしても、悪いことした人をよってたかって叩いて溜飲を下げることと、この世界から少しでも悲しい事が減るのを願う(考える)ことの間には距離ができてる。

■自分の発言に、その意図の伝達の確実性が担保されているなんて最初から思ってなくて、それを前提にしているから、意図が伝わらなくても大概気にしないけど。それの態度は少数派なのかもしれないなと思うことはある。
国語力と読解力の話は伝達の確実性の本質じゃない気がするし、水掛け論になる。

■「理想なんて役に立たないのに、理想を抱くのは子供っぽい」みたいなの聞くと、理想は役に立たないいんじゃなくて即効性がないだけなんじゃ?と思い、更に、即効性のなさに対しての堪え性のなさの方がよっぽど子供っぽいと思ってしまう。

■あることの、善か悪かと言う判断が曖昧なのに、このあることを容認すると自分達の立場が危うくなる危険性があるから批判してしまうってあると思う。
あることを悪と設定している立場からしたら、その悪を、悪か悪ではないか保留にしている人も悪にしなければ立場が不味くなる時があるのかも。

■他人に幸せを分けてもらえる(人の幸を喜べる)前提条件が「自分のことを不幸だとは思っていない」ことならば、他人の不幸を蜜の味と感じる前提条件は「自分のことを不幸だと思っている」ことだろうか。

■作品が「問い」で、作品に込められた作家の意図が「答え」ではないのは、作品は「表現」(作家の意図)と「表出」(作家自身にも把握不可能なもの)から成っているからで、作家は作品の「負いかねる責
任」を負わなければならないのだとしたら、作家はhttp://t.co/KMGJTuw9cxこの意味で「大人」でなければならないのかも
知れない。

■たまに見かける、非西洋美術作家の西洋美術に対する反発と、同じくたまに見かける、西洋美術の作家の、西洋美術はローカリズムの一つと言う言説に対する反発は同じもののような気がする。
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2014-03-17(Mon)

文芸創作会空剥文芸イベント『 』vol.2で話したこと、話したかったこと。

今回リレーショナルアートと言うのをやらせて頂きました。
リレーショナルアートの「リレーショナル」と言うのは「関係性」と言う意味で、ニコラ・ブリオーと言う人が90年代後半に「関係性の美学」と言うのを提唱したのですけど、文学の世界にもあると思いますが、文学に関係あるものだと「ロラン・バルトの作者の死」とかでしょうか?
ああいう批評基準みたいなものです。
「作者の死」は、作者と作品は切り離して批評するべきだと言ってます。作者の自分語りや逸話を作品批評の根拠にすると帰属錯誤な批評にしかならない、と、当たり前なんですが言って(書いてある)ることが明確なんです。
けれど、「関係性の美学」はブリオーが当時、雑誌で連載をしていたものをまとめたものと言うこともあるのかも知れないですが、どちらかと言うと内容が漠然としているとこがあるらしくて、「あるらしくて」と言うのは実は恥ずかしながら僕はまだ読んだことないんです。
で、定義がアバウトだから解釈幅が広くて色んな解釈ができてしまう。色んな解釈ができてしまうから引用しやすくて、無数の作家が引用して美術界に一気に広まった。そうやって広まって90年代後半からの美術を席巻したものと言えます。
特に日本では「関係性」と言うキーワードが独り歩きした様なところがあって。
それは何でかと言うと、「関係性の美学」は日本語訳が出るのが遅かったんです。
90年代に後半のものが2011年にやっと翻訳されて出た。
これは日本でどれだけアート(ここで言うアートは西洋美術のことですが)が一般的に関心を持たれていないかがわかるエピソードなんですけど。
後、ドイツ哲学を始めとする、ヨーロッパの哲学はイギリスやアメリカの哲学と比較すると、言い回しが難解で、「深遠なる哲学」なんて言われていたりして…ブリオーはフランスなんですが、そう言う癖の強い文章を書くみたいでして、そう言うこともあって、日本語訳が出るのが遅かった日本ではなかなか理解するのが難しくて「関係性」と言うキーワードだけが独り歩きした。
この「関係性」と言うのが日本の美術にどれだけ影響したか。アートをちょくちょく見に行く人だったり、 作家活動している人はわかると思うんですが。ワークショプとか、体験型アート、参加型アート、あと地域活性化を錦のみはたに上げてるのコミュニティ・アート、そう言うのの理論的な後ろ盾として引用されてきたんです。「関係性」は。
いま言ったものは90年代後半から盛んになった。
あと盛んになったことが一番顕著なのが「インスタレーション」。
これは、作品と言うか、モノと場所や状況との関係性を築く作品。
インスタレーションの氾濫でわかると思います、「関係性の美学」と言うか「関係性」の日本への影響がどれだけあったか。

で、ブリオーは結局「関係性の美学」で何を言ってたのか、ここから引用なんですが、引用と言うか引用の引用なので孫引きなんですが、ブリオーは、アートの60年代における実践と90年代以降の実践とのもっとも大きな違いとしては、制度批判の根底にはユートピア的な世界への憧憬があったということ挙げました、で、ブリオーはそうした理想を否定し、むしろ「いま、ここ」にいる私たちが、よりよく生きるための方法を模索する方向へと転換した、より幸せな明日を信じるよりも、いま 目の前にいる隣人たちとのあり得る関係を開発することが求められている、と述べた。リレー ショナル・アートの作品において仲間ができて、いろんな人となかよくなれる。互いに互いを許容する、まさに民主主義的な場であるというのが、ブリオーの主張なんです。
作品の評価を、そこで表現され、 創出され、影響される人間相互の関係性に依拠すると言うものです。

で、今回、僕がこの作品で何をしたかったのかと言うと。
このイベントに合わせて刷られた冊子(空剥)、この中に僕は「恋愛論」を書かさせてもらっているのですが、その恋愛論に沿って作品を展開していきたいなと思いました。

その恋愛論の中で、恋愛とは「絶対的他者」との出会いからから始まると書きました、絶対的他者とは自分の想像の範疇にはないもので、それはこの僕が書いたもののなかでは「想い」なのです、自分の想い。
誰かへの想いが自分の想像を越えてやってきたとき、そのような情動を起こさせる他者との出会いが恋愛の始まりだって、書きました。
で、今回、張り出されたモノを見たとき、そのなかに自分では思い付かなかった恋愛論が見つかったかもしれない。
張り出された誰かの恋愛論に他者性を見いだしてもらえるかもしれない。
そう言う状況をつくりたかったのです。

で、気に入ったのを持っていってもらったのは、誰かに持っていかれていて、自分にとっての他者と出会えなかったかもしれない。
それも恋愛のアレゴリーになるんじゃないのかなと思ったのです。

で、さっき言ったブリオーの関係性の美学の主張に対して、クレア・ビショップって言う人が批判してるんですけど。
またここから孫引きです。
ほんとうに民主的な場っていうのは、衝突や軋轢もすべて含みこんでこそ成立するはずだと。
その論拠となるのが敵対性(エルネスト・ラクラウとシャンタル・ムフに よって用いられた政治哲学の概念)という概念で、それは不安定な主体が、異質なもの(私ではないもの)との衝突を通して自己同一性を更新していく、というもの。
他者って言うのはこう言う面も備えてる。
衝突もしうると。
張り出された恋愛論のなかにはそう言うものもあったかも知れない。

更に、僕がいま話した作品の意図、思惑を越えて、この作品を実行する上で、僕の中の予定調和を越た何かがたち現れるかも知れない。それは僕にとっての絶対的他者だなと。
更に、この「文芸」イベントにとって美術の作品が他者になれたらな、とか。
この作品は、参加してくれた方が作品を作ってるとも言える、受け手がつまり作家の立場にもなる。
そう言うのは作品の関係性の上で成り立つ、恋愛論を書いて頂いた紙を持ち込んだパネル等ではなく、会場の壁に直接張り付けたことと言うのは場所との関係性を積極的に取り入れるため、だとか。
今、色々いいましたが、作品と言うのはこう言ったように、色んな要素が絡み合ってると思います。
それはアートに限らず、どんな作品もです。
最初の方で話させてもらった、ロラン・バルトの作者の死で、バルトは作品は作者の自分語りに収まるような単純なモノじゃない、数々の影響や引用、無数の経験が織物のように編み込まれてできた複雑なものだと。
だから、作者の意図を正確に汲み取ることだけが批評なんじゃないと言いました。

引用部分の出典先
http://ryoheiito.tumblr.com/post/28623344056

2013-09-07(Sat)

いろいろ

■結果論の愚かしいところは、過程を評価しないところなんかではなくて、同一のものでも結果が異なれば別物として扱うところで、結局それの正体を判別でききてないところなんじゃないか。
同一のものでも外因が異なれば結果は違う訳だから。

■人が引用したものを気に入らないと「借りてきた言葉」と批判し、違う場面では、その人が自分の言葉で述べた意見でも、気に入らないと「あなたがそう思ってるだけでしょ」と批判する。「自分の言葉/人の言葉」か、が問題なんじゃなくて、「自分が、気に入る意見/気に入らない意見」か、の問題。
結局、どっちも「気に入らない」のメタファー。

■もともと、未知に対する畏怖が信仰心のもとだったと思う。
そして、神概念は、未知に人格を投影して説明をつけようとした試みだったで、しかし、証明され得ないからこそ未知なのだけど、説明しようとしたとたん既知へ収斂してしまうと言う矛盾を孕んでいる。

■その意見を受け入れるかどうかの時に、その意見の内容よりその意見を述べてる人の態度が重要であることはあり得る。
しかし、「態度が気に入らない」を「言ってる意味がわからない」等と置き換えて言い表したりするもんだから、今度は、意見発信者が相手を「理解力がない」と見下し、それが態度に出て、ますます相手の気に入らない態度になる悪循環は、見たことあるような気がする。

■「わかる」と言うことは、物事を常に自分の既知の領域へ収束させることだから、物事を「わからない」のまま保留にできる人とできない人だと、できる人の方が受容力が高いのは当然。

■「嫌われたくない」と言う動機で抑圧的に生きてる人は、自分が嫌われる筋合いがないと思い込んでしまうことがあるのかも。
「好かれる/嫌われる」ってそんな機能的なことじゃないのに。
そんな思い込みがあると、自分を嫌う相手を過剰に憎むことになるのかも。
しかし、合理主義が横行すると、人間関係をただの関数だと考えてしまうのかもしれない。そうすると「好かれる/嫌われる」は機能的に見えるのかも。

■軽蔑している人の意見を「あいつは嫌いだけど言ってることは正しいかもしれない」と精査することよりも、尊敬する人の意見を「この人好きだけど言ってることは間違ってるかも」と精査することの方が困難な気がする。

■今の自分の立場が有利になるような言説を支持するのは合理的。

■他者の承認に強く依存してしまうってことは場当たり的になる可能性が高い。

■従業員が心的報酬で働くように教育すれば経営者はコスト減らせる。
でも、心的報酬で何かするってことはよくある動機で、作家なんてそういう面が強いだろうし、だから心的報酬でもほんとに納得してるならいいのだろうけど、「心的報酬で働くことが当たり前」が社内で同調圧力として作用すると色んなよくない問題が起こるんだと思うし、実際起こってる。

■アングラやサブカルをジャンルとして語る文脈があるけど、もともとはジャンル名ではないよね。
門外漢の人への説明に、理解されない経験や、それに基づく予感を踏まえて、諦め気に「サブカルです」とか、「アングラです」と、使用されてたとこがあると思う。
あと記者なんかが便利に使ったのとか。
それと同じに「現代アートです」が、ある場合もある思う。

■ベーコン、リンチの系譜ならサイレントヒルもホラーではないと言えるのかも。

■日常レベルの思考に結び付いてない(実践してない)思想って、ただ、そう言う考えもある(知ってる)よって言ってるのと同じな気がする。

■成功した人が「運がよかった」と言うと称えられて、失敗した人が「運が悪かった」と言うと、運のせいにするなと言われるのは、努力でなんとかなると言う信仰があるからかな。
成功した人が運がよかっただけと言って称えられるのは、努力でなんとかしたのに謙遜して運と言ってるからと思うからでしょ。

■あることをただ「気に入らない」と表明するのはよくない、と言うのは、ただ気に入らないものを気に入らないと言うにも、それを気に入らない理由に空理空論を練って、気に入らないと言う事に正当性を持たせなければならないし、気に入らない理由を述べるため、何故気に入らないかを考えたとき帰属錯誤が起こることがある。
そうすると、ただ、ある人があるものを気に入らないと言うだけの話しだったのに、第三者がその空理空論や帰属錯誤を起こしてだした結論に納得してしまった時、そこへ善悪の構図を錯視することもあり得るのではないかな。

■もし、作家がシャーマンに近いのならば、シャーマンはただ心地のよいものを提示する存在だろうか。

■合理化しないといけない状況下では、わからないもの(合理化できないもの)を「ないもの」としてしまうのが合理的。

2013-06-26(Wed)

いろいろ

■人の能力が現行の社会状況によって規定されるなら、現行の社会に適応/不適応な性質がグラデーション的に在って、そのどこかに位置づけされるように人々がいて、社会によって介助される/されない
のラインが引かれ、されない側ぎりぎりで、「バカ」とか「能力がない」と揶揄される人達が一番歯を食い縛って社会のために堪えてる人と言える気もする。
介助の内容もグラデーションだけど、線引きの「線」周辺は「あまえるな」とかそう言った言葉を受けているんだろうな。

■「私はこう言う人間です」と自己申告することと、その人がその人の言う通りの人間であることは別とするのに、作者が「この作品はこう言う作品です」と申告することと、その作品がその作者の言う通りのものであることは別の話にしないのはどう言うことなのだろう。
「作品は、ある意図に基づいて制作されるからだ」としたら、「私はこう言う人間に成りたい(見られたい)」と言う意図にそって行動した人がいても、結局、その人が意図したような人間であるかどうかとはやはり別の話になると思う。
自分自身のことと、自分から離れた作品は違うと言うならば、自分から離れた「発言」にも同じこといえる。

しかし、言葉こそその人自身と言われたらちょっと考える。

何か他意のある曲解を除いた批評に対して「作者の意図とは違う解釈なのでその批判は妥当ではありません」のような反論が有効かどうか?

■例えば、作家が、自分やってるこを、「社会に必要なの?」と嘲笑された時だけ、その一般的価値を認知できずに憤慨したりするのに、自身は普段あるものに対し直接触れることもなく、流布された価値や文脈を疑うことなくその通りに扱う。自分がされて憤慨したことを他のものや人にしていることに無自覚。
最終的に、その態度を、「人間てそんなものじゃん」と開き直る。
「だって人間だもの」を他人が自分にかける迷惑を許容するときに使わず、自分が他人にかける迷惑に対しての寛容さを他人へ強要するとき使う。


A
感謝されなくてもいい、もしかしたら相手に喜ばれないかもしれないけど考え抜いた末の行為。

B
他はなにもいらないけど相手に感謝されたい、喜んでもらいたいから善行をする。

C
名声(売名)やお金、恩を売るための善行。

D
相手が損害を被ると知っておきながら善行を装って行われるもの。

A.B.C.D.の間で、「善/偽善」の一般的な線引きはどこだろう?
勿論、それぞれの間はグラデーションだろうし、例えば、「この金額じゃ見合わないけど、見合わない分は感謝してくれたらそれでいいや」と、複合的な動機だってあるだろうけど、強引に分けたからこんなんかな?

「A」は、「もしかしたら相手は喜ばれないかもしれない」と、書いたように、善意からの行為でも相手に何らかの不利益がおこるかもしれないと言う疑いを常に内包していて、正しさの盲目性を意識する困難がある。

「B」は、感謝されなかった、喜ばれなかったと感じた時に、不満が表れて、攻撃性に転じる場合だってあるかもしれない。
だけど、多くの人は善行めいたことに感謝を示すと思うし、実際、感謝されたい、喜ばれたいと言う動機の行為は社会の色んなものを賄ってると思う。

「C」は、「お金」と言うことで考えると、お金のない人が救われることはないけど、お金が発生するだけに、他よりは利害を一致させやすい気もする。
そして、お金のために何かするって言うのはいまの社会の「当たり前」だと思う。「当たり前」だから善行とは呼べないのかもしれないけど、いまの(あくまで“いまの”)世の中からなくなったら一番にっちもさっちもいかなくなるやつかな?と。けど、お金と取引されるものをわざわざ善行と呼ぶかと言うの話になるのかな?
善行と、におわせることで利益の増分を狙うかどうか?と言う話は「D」に近いのかな?

「D」は、多くの人を傷つけるだろうからない方がいいと思うけど、感謝や喜びの主体が相手で有る限り、騙すつもりの行為も絶対相手が救われたと感じないとは言い難い。

僕は、善/偽善のラインは、BとCの間に引かれるんじゃないかなと思う。
お金等を求めるものを善行と言うのは偽善ではないかと、だけどお金のやり取りが少しでも生じているものでも、例に出した「この金額じゃ見合わないけど、見合わない分は感謝してくれたらそれでいいや」の「感謝してくれたらそれでいいや」の部分は偽善とは言えないと思うからややこしい。

善/悪の判断は、動機が何だろうと起こった結果で判断されることもあると僕も思います、しかし、善/偽善は結果論ではなく動機でしか判断できないのじゃないのかなと‥
善意が人を傷つけることもあるし、悪意によって結果的に救われたと思う人が出ないとも言い切れないですもんね。
「そんなことない」と言う人もいるかもですがそれは希望的観測だと思います。
でも、結果論的善悪の判断だけも不味いんじゃないかな、とも思います。
善(正しいと言う思い込みが)悲劇を生むことも沢山ありますが、善意によって支えられているものもやはり沢山あると思いますので。

■現行の体験が類型の体験の記憶を引っ張り出してくるなら、例えば、ある体験が過去にあった嫌な出来事を想起させるから嫌であることと、その体験自体が嫌あることとが混同されると思うけど、混同と言うより、もしかしたらこの二つは不可分なんじゃないか?

■「他人に興味がある」と言っても、「その気持ちわかる」と言うように「わかること」へ寄っていったら、結局「自分」へ収斂してゆく。
引きこもって本ばかり読んでいても、他人の書いた文章の「わからない」部分に食らい付いていく人の方が、もしかしたら開かれている人と言えるのかもしれない。

■「ネットサーフィン」の語感に、バブル期の余韻を感じる。

■エイリアン2は、エイリアン(未知)をえがくために、「エイリアン(未知)」を「意志疎通の出来ない不気味さ」に狭隘化して、既知のもの(蟻や蜂)に落とし込んでしまった詰まらなさを感じる。
と、言いつつ、未知のものを未知のままにえがいた「2011宇宙の旅」より楽しんで見れるのはエンターテイメント的だからだろうけど。
エイリアン3は、2でインフレを起こしたエイリアンを、状況を変える(舞台が刑務所)ことで「一匹でも手に終えない」と言う緊張感に戻した。

■取っ組み合いの仲直り。

2013-05-30(Thu)

いろいろ

■自分(の経験や心理)を根拠にした(相手に投影する)コミュニケーションの悲劇は、自分自身のことはわかっている言う思い込み(感覚)から始まり、自分のことがわかると言う感覚の延長に他者も同じようにして在り、その方法で他者も扱えると思ってしまうことで起きている気がする。

コミュニケーションなんて成功だって失敗だて(偶然だと言うことを)経験してきてる筈なのに、何故かその経験だけは忘れて「伝わるものだ」と言う、「必然」を前提にするからおかしなことになる気がする。

コミュニケーションは常に誤解を包含していて、先ず誤解があってその誤解と発信者の意図の一致(重なり)の偶然~蓋然性が「理解」(コミュニケーションの成立)で、必然的な伝わりと言うものはないんじゃないか。
普遍的に「意図の伝わる確かさ」を確実に担保できた「過不足のないメッセージ」なんてものはあるのだろうか。
誰かにとっては言葉足らずのものが誰かにとっては冗長的(情報過多)であることはあり得ると思う。
そして、不足は不足のまま留保せず、経験や自分の心理で補完してしまい他意を読み取ろうとするし、冗長(余計なこと)には経験や自分の心理を投影して他意を読み取ろうとする(「他意を読み取る」から「余計なこと」なのか、鶏が先か卵が先かの循環になってしまう言い表し方しか思いつかなかった)。

■人間が他の哺乳類に比べて、眼の「白目の占める割合」が大きいのは、そのことによって黒目の動きが顕著になり、それによりそこへ情報が表れる作用が高まるから。
仮面(または、表情をなくす程の厚化粧)と踊りの親和性は、顔の表情にあった情動の表れを身体に譲り渡す、と言う構造として在る。
他方、仮面を着ける者が動植物、自然物(に宿る精霊)、神、悪や正義そのものにまでなりきれるのは、表情を隠すことによって読み取られる「私」が断ち切れる(失われる)確信に立脚しているのではないかなと思った。

■作家が、作品の表層の部分を「私にもできる」と思われるのを嫌う(怖がる)ことには、その作用で「私にもできる/私には作れない」と言う表層部の問題に多く留意し続けてしまうと言う落とし穴があるんじゃないかな。

■「死にたい」と言うのは、最悪の気分を形容(比喩、隠喩)したものだろう。
世の中に隠喩も死も溢れているのに、何故「死にたい」は特別、目くじらを立てられるのか。
それは、ただ不快なんだろう。
なぜ不快なのかを説明しようとしても 、それこそ、ただ「不快」の隠喩の延長にしかならないと思う。
「死にたい」以外に形容し難い気分を知っている人はその不快感に寛容になることがあるのかも。

■「私のことを考えている人しか私のことを救えない」と思い込むのは、救われると言う出来事をどこか機能的に考えているからだろうか。しかし、実際にそれと巡り会えたとき本当に救われたと感じることができるかはわからない。何が自分を救うのかと言うのは不可知。欲望と分けて考えれていないだけ。

■「やくにたつか/たたないか」が結果論でしかわからなくて、「役に立つ」ものを増やしていきたいなら「役に立つか役に立たないかわからないもの」を担保していくしかない。

■一回の恋愛に払うコストが高い人ほど少ない回数の失敗で「自分には資質がない」と見切りをつけてしまうのは当たり前だと思う。(「コスト」なんてものじゃ汲み取れないものだろうけど、敢えて狭隘化すると)

■自分がわかることを他人はわからないことはあるし、他人がわかることを自分はわからないこともある。そんな当たり前のことを瞬間とは言え忘れて憤慨したり優劣を錯覚したりする。しかし、そんな瞬間的に垣間見ることのできる(隠しきれずに度々前面化してしまう)ものこそ本性(根底に常にある)だろう

■作家が作品を作るとき、日常に順化した感覚から抜け出そうとしているのならば、物事を自分の規定できる領域に落とし込んで把握すると言う悪習(作家にしてみれば)から遠退かなければ。
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鳥はとびつつ老いてゆくのみ

Author:鳥はとびつつ老いてゆくのみ
かく撃ち抜かれたる兵士の眼

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