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2012-05-24(Thu)

いろいろ

■子供が好き勝手に描いた絵を、子供は想像力が豊かだから自由に描けると言う人がいるけど、おれは無秩序だから自由に描けるのだと思う。

■自分にとっては役に立っていない、立たなかった(立ったと感じなかった)と言う個人の経験を一般化して「社会の役に立っていない」更に「だからなくせ」は、いま自分にとって役に立たないものが明日にはお世話になる(役に立つ)ものになっていることだってある訳だからブーメランになる。

■勉強す(調べ)れば解ることをあれこれ個人が考えるのは有意義とは呼べないだろうけど(勉強してからあれこれ考えることの方が有意義と言う意味で)楽しい(面倒臭い「勉強」の部分をスッ飛ばすこともあって)。楽しいから、ネットには、「勉強せずに自分で考えたこと」(めちゃくちゃなこと[自分も含め])が氾濫しているのだろうな‥。

■「無条件のモノが本当の愛だ」のような言説がわからない。
「親から子への愛は無条件だ」も錯覚だと思う。
この「無条件」は「動機がない」と言うことではないだろう、動機のない行動なんて「反射」みたいなものだけだろうし。
例え「そう、本物の愛は『反射』みたいなものだ」と言ってみたところでそれは比喩でしかない。
動機のない持続的な行動って有り得るのか?
ここでの無条件は「見返りを求めない」ことなのだろうと予想するけれど、他者に見返りを求めないことは動機がないと言う訳ではなくて、見返り(動機)が内在化した状態だろう。
例えば、「一途な自分の自己実現(行動の神聖化、神聖さの獲得)」。
動機(見返り)が内在化していて見返りを求めていることが見えにくいだけで、これらがさも「害がない」と言っているように聞こえるのだけれど、そうならば何故そう言い切れるのだろう?
害がないと言い切れる行動があるだろうか、そう設定することで安心したいだけではないだろうか。
それに、例に出したもので言うと、神聖さを欲求することをさもしいと思う考えは何故ないのか?

■「私の『見返りを求めない愛』には害がないから貴方のモノより上位で、貴方の『見返りを求める愛』には害があるから私のモノより下位である。」と言うような主張に接した時には自尊心が保てず暫く自分を蔑み続けた。

■どちらかと言うと恋愛体質なので恋愛感情を抑制するのが実は地味に辛いけれど、かと言って抑制せずに行動して上手くいかなかった時にメンタルを崩して何も手につかなくなる事を考えると不本意ながら地味な辛さを選択してしまう。

■「痛み」に対して上位意識を持ってしまっている人が存在するように思う。
痛みに敏感であるならば自分と同じ落とし処になる筈だと言いたげな人。

痛みに対して常に被害者の立場をとっていて被害者意識が強いから加害者の立場になることを想定し難い。
また、「想像力を持たない者による排外」の被害者の立場も取っているが、実際は自分も想像力が無く自分と同じ種類や近い痛み、もしくは痛みの表出の様相の類似性の高いもの以外に対しては排他的で、そのことに無自覚。
被害者と言う立場を取っている分、自分を疑うことが困難に見える。

他人の痛みにも敏感だと言う立場を取っている、もしくはそう思わせぶりだけど、自分の受けた痛みに囚われ過ぎていて、享受する「他者の痛み」の種類が特定もしくは限定的。
「僕(私)は他人の痛みにも敏感」、もしくは間接的な表現でその様な主張をするのはどんな時なのだろう。他人の痛みになんか皆が鈍感ではないのか‥だから可能な限り中立な立ち位置を獲得するための知識(バイアスはある程度、知識で外せると思う)や想像力の材料となる知識が必要なのではないか、と僕は思う。
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2012-05-09(Wed)

色々

■食べたらうんこしたくなるのは道理だがバカっぽい。

■少しでもアブノーマルなプレイを要求すると「その欲求は性の逸脱現象です」と指摘していなす女の子、と言う設定の俺。

■本来、非特定的なものの中から他のものと区別をつけるために名前を付ける筈なのにその言葉が認知され拡がると色んな意味を包含するフラットな言葉になってまた非特定的になってゆくことがある。
ある言葉が一般化して使用される回数が多くなると解釈される機会も増える。そしてその解釈も一般化する。それが繰り返されていくと一つの言葉に多様性が生まれて、それが非特定的と言えるようになる。

■「脱皮した直後の虫のようなやわらかな人柄。」

■結局、排泄行為はせざる得ないので便意に堪えながら作業をすることは非効率的だと言うことに早く気づくべきだ、毎回。

■「アリゲーター」とか「クロコダイル」とか相応しいけど「ワニ」って何か呑気だな。「わに」だぞ、逆さに読むと庭だよ、呑気だ。

■「コレがわからないのはセンスがない」=「自分がわかるものは良いもの」で、「皆がわからないものは良くないもの」=「自分がわからないものはよくないもの」と言うよな使われかたがされている気がする。
それでもよいのだけど、それならば感性的評価の評価軸が実態のないモノだと言うことを認識しなければならないと思う。

例えばAさんとBさんが作品1に良い評価をしたが、作品2に対してAさんは悪い評価でBさんは良い評価をする。何てことは幾らでもある。
感性とは個人的なもので共有は不可能。
普遍である感性的な評価軸はない。
ただし権威主義が働く(「あの人が良いと言っているのだからこれは良いものだろう」)と共有してるかのような錯覚は起こりうる。
自分の感性では到底理解しがたい感性で成り立っている世界はいくらでもある。
創作活動をするのならば感性と言うものの正体を知ろうとするべきなのかも。
しかし、表現物に対して、理性だけでの評価とはないのではないかとも感じている。
理性的評価の利点は評価軸が定義付けできるところで、それをそのまま裏返した欠点は排他的なところだと思う。

■ベニチオ・デル・トロの男性シンボルが大きいかどうか僕は知らないけど、男性シンボルが大きそうな顔をしているし男性シンボルが大きそうな名前であると思う。余計なお世話だと思うが。

■上昇してきた自分の屁を吸ってしまうってことは、身体にとって不要または有害だから排外したモノを再び取り入れてしまうことなので身体機能に反抗してると言うことになる。なので移動しながらの放屁が正しい放屁の形である思う。

■差別対象になりやすい身体的特徴や内面的特徴を持った人達がその特徴を笑いに昇華する傾向を「良い」とする事を差別的でないと思っている人がいる。笑いにしてくれている方が気が楽かもしれないが、そのように条件付きで許容することがまず差別構造に当て嵌まっていると思うのだけど。
自分の特徴を「笑いとばせていないといけない」と言う考えがあってそれがマジョリティー側からマイノリティー側に向けられることはやはり差別だと思う。
それをやりたくないと言う意志も尊重されるべきだし、やりたくてもできないこと責められている気がして苦しくなる人もいるのではと思う。
それをやらなくても済むマジョリティーがマイノリティーにそれを求めるのはこくだなあと‥

■自分にとって役に立つものでも他者にとっては役に立たないものは無数にあるし、他者にとって役に立つものでも自分にとっては役に立たないものも無数にある。なので「役に立つかどうか?」を客観的に見たら、何か一つでも役に立たないと言えるならば全てのものは役に立たないと言えることになるし、何か一つでも役に立つと言えるのならば全てのものは役に立つと言えることになる。
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Author:鳥はとびつつ老いてゆくのみ
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