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2012-10-31(Wed)

いろいろ

■いくら頭が良くても、内省が機能してない人には限界がみえてしまうな。主張に内省が作用してなくて都合的な言説になる。ポジショントークが上手いだけの人になってしまう。でもそう言う人が多数に支持されることもよくあること。その人と多数の都合が一致すればそうなる。

■しばらく使用されないハッシュタグは何処かへ消えてしまうのだけど、それらは何処に行ってしまったか。何処かに在るハッシュタグの墓場へ埋葬されているのだ、きっと。

■食料難の民衆に「パンがないならケーキを食べればいいじゃない」と言ったマリー・アントワネットの言葉を笑っていても、同じように「自分とは違う境遇への想像の希薄さ」と言うものは誰にでもあるものだと思う。(実際はマリー・アントワネットが言ったのではないらしいけど)

■僕の死は僕しか死ねない。僕の死を死ぬことができるのは僕だけなのだ。

■生にしがみついて死を否定することは誰にもできないし、誰かが死んだことによって生が否定されたこともない。生死を否定できるものがあったとしたら、それは生まれてこないことだけなんじゃないのか。つまりそうするには全て手遅れ。

■生は死の前提である。死ぬことを知りながら、死が何であるかはわからない。

■不可分と言うのを考えたとき、最も「そう」であるだろうと直感しているのは、生と死のことなんじゃないか。生は死の別の呼び方だと。

■フルカラーの夢の中から不意に、仰向けのへと引き抜かれ、裸電球が日常の輪郭をなんとか橙に浮かしていて、それが余計に日常からの距離を授けている。秒針が刻むリズムも時間とは無縁な気がしてやまない。何もかもから遠い。口呼吸で胸は重たい

■「『さみしい』と言うのだけが本物で、『好きだ』なんて言うものはこじつけです。」巻き戻されては繰り返すテープレコーダーの前、剥がれ落ちたのち、乾燥昆布のような遺体。

■踊り場の窓の前で電池きれて死んだフラワーロック。曇りガラスの向こうは更に曇天の夕空。夕日を綺麗だと思ったことがたった一度もない。

■「私だって泣こうと思ったら声をあげていつでも泣けるけど~♪」と言う、小公女セーラOPの歌詞の中の少女像を健気と言うのは簡単だけど、自分の不器用さを棚にあげている(その延長には「言わなくてもわかってよ」的な面倒くささがあるとも言える)と言う見方もできる。

■「いないいないばー」は、両開きの開き戸(観音開き)だけど、片開きの引き戸や両開きの引き戸(自動ドアによくあるやつ)折戸(バスや風呂場によく用いられるやつ)、グラインドトアバージョンもおり込むとやってる側も飽きないと思う。

■自分の「好き嫌い」では「善悪の正誤判断」は出来ないと解りつつも、強烈にその事を意識していないと(感情〈個人的な好き嫌い〉に釣り合うくらい)、ついつい「好き嫌い」で「善悪の正誤判断」をしてしまう(好き嫌いの隠喩として善悪の正誤判断を下す)のが人間なのだと思うです。
例えば同じ構造のモノでも様相が違えば正しいと(善だと)判断してしまうこともあるし、自分が不利益を被る場合は誤り(悪)で利益が得られる場合は「正しい」となってしまうことはある。
その時、概して構造が見えていない。
得してる時って特になにも考えず享受してしまいがちだから。
しかし、他方で。自分にとって不利益な出来事が起こった時に「あの時あの場にあの人がいたから‥」と、自己都合的に考えてしまうことがあるけど、その考えは、不利益を被る「自分がいなかったら」と言うモノと同列。
主体であることによって気づきにくくなっている物事はたくさんある。
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2012-10-13(Sat)

色々

■実家に帰ってきて風呂に入った、風呂あがりに常夜灯の小さな灯りだけが点る台所で冷蔵庫を開けた、
庫内は照明によって、室内のその他のものと明度のコントラストが際立って、それを嫌うようにプラスチックの容器に入ったお茶を取り出し急いで扉を閉めた。
水切カゴにあった湯飲みにお茶を注ぐ。
秋の夜には冷たすぎて、風呂あがりでも飲み干せずに少し残したが、構わずそのまま水道水を流し濯ぎはじめた。
飲み口をこする。「自分」と言う痕跡を消すように、人差し指の指紋で“それ”をぬぐい落とすようにして。湯飲を水切カゴに戻す…女の子とチュウしたい。アイドル並みにカワイイ女の子と‥

■青田買いの語源が青田典子だったとは驚いた。

■TL全体が既に死んでしまった人達の会話を複数のbotで再現したもので,bot同士はメンションをとばし合って楽しそうな会話が成立している。
それを眺めていたら、ついつい相手がbot達だと言うことを忘れて会話に入ろうとメンションをとばしてしまう‥
するとさっきまでわいわいと賑わっていたTLがぴたりとまりシーンと静まりかえる‥

■過疎化しきったツイッタ一で、ツイッタ一全盛時に実際にあったツイッタラ一連の会話を複数のbotが再現したTLを見ている‥‥
かつての様にメンションをとばしても、当たり前だがbot達にはスルーされ、自分のそのツイー卜だけ過去のTLの上を流れてゆく‥。

■人が自分の生い立ちを語ろうとした時、偽史しか語れない。
正しく自分の歴史を語れるなんて言うのは思い込みにしか過ぎないんじゃないか。

■「神話は寓話」と言う言葉があるけどギリシャ神話とかどの辺に寓意があるかわからない。

■寺尾あきらと言うエイドス(原型)のチャック・ノリスと言う一つのヒュレー(あらわれ)かも知れない‥

■寺尾あきらの中からチャック・ノリスが出てきて、チャック・ノリスの中から寺尾あきらが出てくる。
そして、世界はなにも変わらない。

2012-10-11(Thu)

「神が偶像化するのか、偶像が神化するのか。」

「神が偶像化するのか、偶像が神化するのか。」と問われたならば多くの人は「神が偶像化するに決まっているじゃないか」と思うだろう。
何故なら、神を象ったものが偶像であるからだ。
しかし、本当にこの世に生まれたのはどちらが先なのか。
まず、神には「唯一神」と言う考えと「多神」と言う考えかたがある。
アニミズムと言うのは「多神」と言う考えに近い。
進化論を宗教に適用した、宗教の進化に関する理論ではアニミズムは、宗教の進化の中で原初的な位置にある。
しかし、アニミズムは、すべてのものには霊的なものが宿っていると言う考えで霊的存在への信仰である。
よって、アニミズムの段階ではまだ神は生まれていない。
神と霊的存在の違いとはなにか。
神観念とは人格が投影されたものである (擬人化、擬人観)。
つまり、人格を持った形而上概念が生まれる以前に偶像が誕生しているかどうかがカギになる。
しかし、偶像の定義が「神を象ったもの」である以上それはあり得ない。

少し話しを変えます。こう言う問はどうでしょう。
「人格が身体を持ったのか、身体が人格を持ったのか」
この問に対しては「身体が人格を持ったに決まってるじゃないか」と答える人が多いのではないでしょうか。

話しを戻して、偶像の方はと言うと。
「偶像崇拝」は宗教の進化学的位置付けではアニミズムの次くらいに位置付けされる「フェティシズム」(呪物崇拝)に似ています。
呪物崇拝(フェティシズム)とは、超自然的な力を備えていると信じられる自然物を用いて人間が造った製作物を崇拝することである。
ここに宿るのは「超自然的な力」であって神ではない。
しかし、呪物崇拝の崇拝対象は物心と呼ばれることもある‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥詰んだ(神が偶像化すると言う言説をひっくり返す材料がつきた 笑)

だけどここまで書いたからアップしないと勿体無いと言う貧乏根性でアップしました‥勉強する機会があって材料を見つけれたら書き直します。以下、手抜き。(申し訳ないです)

どうやら、トーテミズム(動植物への崇拝)やエウヘメリズム(王や英雄の神化)を経て崇拝対象が人格を持っていく気がする。
エウヘメリズムは否応なしに人格付きだけど、トーテミズムの方は最初から崇拝対象の動植物に人格が在ったか知らないけど、なかったとしても徐々に持たされたんじゃないかな。
トーテミズムは宗教の進化論ではアニミズムと同じくらい原初的な位置づけだからここが神観念の最初かな?
動植物を偶像と提議するのは無理だけど、呪物に人格を持たせて神化したルートもあったんじゃないかな?てことが言いたかったのです。宗教の進化論も直線ではなく枝葉はあるでしょうから。
在ったとしてもトーテミズムより後ですけどねっ。

再び話が少し変わりますが、宗教の進化論では後になるほど崇拝対象の実像は抽象化され、更には実像はなくなります。
他方、崇拝対象の内面性は抽象的だったものが人格化し具体化していきます。実像の消滅は分かりませんが、人格が具体化すると都合のいい人でもいるのでしょうか。
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Author:鳥はとびつつ老いてゆくのみ
かく撃ち抜かれたる兵士の眼

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