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2013-03-31(Sun)

いろいろ

■音(震動)ではない声がある。(多くの人が)考える時に使う言葉だ。この言葉は文字ではなく声だ。しかし音(震動)ではない。
他人が聴くことのできないものや声帯を使用しないものを声と呼べるか。
しかし、考えているときに使用している言葉を指して「心の声」や「頭の中の声」と呼ぶことは多いだろう。
そしてそれはたまに、声(音)となるときがある。独り言だ。独り言は、思考(言葉)を口にしている(声化、音化)。そして文章を読むとき文字を「心の声」化する。人の話し(他人の声)を聴いた時にわざわざ「心の声化」はしない。この事から、心の声(思考)と声(音、震動)の親和性は高いと思える。

■「(笑)」や「www」の文脈で語られることがテンプレ化しているものでも当人に取っては深刻であることは幾らでもあると思う。 一般的に「そう」語られるものが全て、その一般的な「そう」に狭隘化できると言う思い込みは典型的な思考停止なんじゃないか。
もしくは、「www」化することでその「深刻さ」に付き合う面倒を回避しようとする。

■ある体験をして、それをカテゴライズする時、既存のカテゴリーに納めるために、その体験した出来事は、つじつま会わせ的に抽象/捨象されていると思うので、分類ってのは具体的把握でなくて、抽象的把握なんじゃないか。

■「礼儀」に絶対性を錯覚するときそこに何らかの力(お金、権力、排他性)が存在する。
対等でない(一方がお金払ってる、権力がある、多数である)立場関の礼儀は力関係のメタファーであるときがあると思う。
だから、「礼儀」を全て一律で語るのは好きじゃない、何かの隠喩である場合だってあるから。「常識」にも同じ性質あると思う。

■おとぎ話に対して「この話の教訓ってなに?」ってなることあるけど、おとぎ話と言うのは寓話ではない(寓意(教訓)がない)、存在自体不思議で、作者が特定的ではなく、ある種、皆が共有する(してきた)世界(自然)に対する不思議さが「お話」化したもの、なのではと言われている。

■チェストバスター(エイリアンの幼体)が宿主の胸を突き破って出てきた後、すぐその場を離れてどこかへ行ってしまう(物陰に隠れる?)習性は、生態的に守ってくれる親がそこにいない、もしくは同種が「守る」より合理的な生態(数が増えやすい)だからじゃないからかな。
エイリアン3では犬(または牛)、AVP2ではプレデターと、人間だけでなく、宿主を選ばないので(ある一定の大きさ(フェイスハガーが卵を産み付けれる大きさ)であれば)、宿主となりうる生物の数があればその数だけ繁殖可能なので増えやすい、と言えると思う。
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2013-03-15(Fri)

色々

■あるものを観察した時、それをどう捉えるかは観察する主体の知識(経験、偏見)に依存する。
観察対象がどのようにあるかは、自分がどのようにあるかを示す。

■あることを「正義」だとした場合それに反することに対しての怒りは「正当」になるので、その怒りには枷がない。
一つの社会で自明的な価値にそった感情ほどそうなる。
例えば、「友達は大切(にしないといけない)」な社会で「友達を馬鹿にされたから怒る」ことは咎められない。それが、感情の大きさ(解放度)に関係していることはあり得るんじゃないか。

■多くの作家は「私の作品をどう受けとるかは受け手の自由」と言うけれど、 それは「作品の持つ自由さ(解釈幅の 広さの演出)」や「観者の見方の尊重 」に寄るところよりも、実のところ、 伝えることの「困難(不可能)性」によるところが大きんじゃないのか。「 受け取りかた(解釈)の自由」に委ねるしか手がない状態。

■自分がいい思いをしているものに対しては絶対主義的スタンスで嫌な思いをしているものに対しては相対主義的スタンス、と言うのがまあまあテンプレなのは、いい思いをしているものに対してわざわざそれを崩しにいくようなことはしないからだと思う。

■同じ言葉を使った隠喩でも、使用者が異なればそこに含まれる意味が違うことはいくらでもあるのだから、似たような作品(表出のし方)でも隠喩されているものは多様なんだろう。けれど、受け手はそこ(類似した表出)に隠喩されているものを自分の経験から一義的に受け取ることが多いのではないかな。
「『売っている』からには消費者に親切でなければならない」と言う価値観が、普段アートとは関わらない人がアートに関わらないで居続ける原因の一つとしてやはりあると思う。アートがもし今より投資対象になる要因を持たないものだったらアートとお金の関係はもっと稀薄だっただろう。

■僕は誰かといた時の思い出より一人でいたときの思い出が鮮明だ。これは別に「一人」に思い入れがあるからではないだろうし、「誰かといた時のこと」に思い入れがないからでもないだろ。「記憶」と言うものは脳だけで独立でしている訳でわないらしい。
身体と言う入出力装置との相互関係(相互的刺激)で保たれている。ある病気を患って一時的に寝たきりになった女性がどんどんと記憶をなくしていったそうだが、病気が治り身体を動かせるようになると次々記憶を取り戻していったそうだ。これはこの記憶のあり方かたと関係してそうだ。
そして、僕は一人で過ごす時間が圧倒的に長い。で、それが、身体の体験的に、一人でいる体感の記憶を濃く残すことの原因になっているのではないか、と思っている。
思い入れ≠記憶の鮮明さ
体感的記憶の鮮明さ(記憶の生々しさ)と、そのとき何が起こったかを(言葉で)記憶しているのもまた違うものの気がする。
思い入れが強ければその表象を言葉化し、それをストックして記憶を繋ぎ止めようとするかもしれないが、身体的インプット(体感的に似たものの再体験)による刺激がないと体感的(感覚的)記憶の生々しさは薄れていく。

■ゼクシィはどんどん重くなっていって、「自重に耐えられなくなって絶滅した(んじゃないか)」って言われている竜脚類と同じ轍を踏んでほしい。
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Author:鳥はとびつつ老いてゆくのみ
かく撃ち抜かれたる兵士の眼

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