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2013-04-28(Sun)

■水槽三篇

冬の寒さが増すのと同じに、意識を覆い尽くそうとする睡魔も強引と呼べる程度になってくる。

水槽の夢を見た。

偶然にも三つ続けて。

一つ目のは短いもの。

森の中の円形に拓けた所に出た。
きっと上空から観たら歪さのある円。

辺りには数日前に降った雪が薄く溶け残っている。

不法投棄の物がちらほら点在し、その中央には幾つもの空の水槽が山高く積み上げられていて、名も知らぬ蔦がその間に伸びて水槽を縫い合わせ塔がそそりたつ。

雨汚れでくすんでいる。

見上げていたら降ってきた。

冬の雨。

雨だと思ったが、みぞれ混じりだ。
しだいに激しくなっていった。
大雪と言っていいのか、大雨と言うのか。
しかし、寒さも音もフィルターが掛かったように鈍くしか感じ取れない。
積み上がった水槽へみるみると、シャンパンタワーの様に雨水が溜まってゆく。
溜まった水にはみぞれの寄せ集まりが浮いて揺れている。

暫くし、ついに重みで下の段から潰れていって塔は崩れた。

ここに来て、音のフィルターが完全に目詰まりしたかのように、目の前の光景は一切音をたてず、静まり返っていた。

ただそれだけの夢。

次の夢は、奥の部屋から覚束ない足取りで姿を現した。

暗闇の中、液体がガラスの壁面に波を打ち付ける音が僅かに聞こえるてくる。
窓際の薄明かり受けて揺らめく液は控え目に散らして返す光が先行した。

身体の大部分が、ガラスでできた水槽になっていてその中に入っている黄色に濁った液体を揺らしながら。

口や鼻は見当たらないが、どうやってか、そいつは鳴いたのだ。

泣いていたのかもしれない。

そう思っていた次の瞬間、ころんだ。
危ぶんでいた通りに。

倒れると同時に床面と接触した水槽は大破して、足元にはガラスと液が飛び散り、液は床の上を素早く拡がっていった。

「そいつ」はそれ以降動かなくなった。
ショック死したのか。死んだのか。壊れたのか。

その死体を中心に、撒き散らされた液が現実の表面を溶かしだした。
溶けた現実の下から現れたそれは空虚と言っていいものだ。

この世界が本来の姿を現した。

最後のは、そこに存在していた。

ポツンと。

「それ」へ、フォーカスしてゆく。

直径1m、高さ1.5m位の円筒状の厚手のガラスの水槽があり、中を橙がかった透明度の高い液体が水槽の約半分まで満たしていた。
水面(液の表面)には、水槽の直径より一回り小さな膜が浮いていた。
その膜は人の皮膚の様であり、タンパク質で構成されている様に見えた。

膜の下面中央からは、水槽の底に向かって大型の獣の脚と思えるものが、ぶら下がった状態で付いていた。
大型の獣とは、象や犀のことだ。
仮にこの脚を象ものとする。
象の脚と言っても、その表面の色はたぶん白色人種の肌の色に近かった。色のついた液越しの印象なので不確かではあるのだが。
脚の重さは、恐らくそれなりにある筈だが、それに釣り合う浮力を膜の面積が補っていたのだろう。

そして、脚の中に空洞があったことも、浮くことを助けていたと思う。
何故、空洞があると分かるかと言うと、脚の付け根の部分の膜の上面中央には穴が空いており、その穴が脚の中に続いているのを覗けたからだ。
そしてその空洞の中からはユリと思える白い花を付けた植物が一本真っすぐ伸びて膜の上50cm程頭を出していた。
そのユリが象の脚内部の底に根を下ろし生えているのか、ただ切り花のユリが刺してあるだけなのかは確認できないがたぶん生えていたのだと思う。

そのユリをすっぽりと被う様に透明質のカバーみたいなものがあった。
それはユリと共に象の脚の空洞内まで入っていた。
カバーの花頭を被う部分は膨らんでいた、形は隆起して大きさは赤子の胴ほどである。
胴に対して首に当たる個所に小さな穴が空いており、そこに天井から垂れ下がったカテーテルが侵入していて、更には百合の花頭の中心へと差し込まれていて何かを流し込んでいた。

水槽の底には澱が雪のように積もっていた。
それは、膜が下面から、絶えず雪雲の様に、澱となる塵を降らせていたからだ。
長く液に浸かり続けふやけて脆くなっているのだろう。
液体の中を雪みたいに細かな肉片が落ちてゆく。
スノーグローブの様に。

カテーテルで花頭に流し込まれていたのがなんらかの養分で、澱は排泄物なのだと考えると代謝しているのかも知れない。


何故こんなにも細かいところまで克明な説明ができるのか。

私はまだ夢のなかにいる。

■夢中夢

夢のなかで、これが夢だと気付いた時、これが夢であるとするその根拠はまさに「気付く」と言う感覚でしかないだろう。

つまり私は私の現実が夢であると直感したのだ。

それは、私が見ている夢なのかも知れないし、私とは違う誰かが見ている夢なのかも知れない。
しかし、夢のなかの私にとって夢こそ現実に他ならない。

これが現実と言うことであるならば、私はこの先ここで眠って夢を見ることはあるのか。
劇中劇と言うものがあるならば夢中夢と言うものがあってもいいのではないか。

いま語っている私は夢の外に在ってこの夢をみているのではなくて夢のなかに存在して、誰かがこの夢を見終わるのと同時に消えてしまうのかもしれない。

それとも、この夢のなかに取り残されてしまうのか。

もしかしたら、既に取り残された後なのかもしれない。

もしそうならば、最早これは夢と呼べるのだろうか。

(夢のなかの)私とは何なんだ。


目を覚ました。

私と彼は同じ私なのか。

■夢のあと

夢のなかの主観(私)と夢から覚めている私(主観)は、同じものの延長を過ごして(共有して)いるのか。
私は夢を見始める度に、見知らぬものに乗移り、夢のなかの〈私〉として過ごし、夢を見終えると夢のなかにその私を置いてきているのかもしれない。

起きている時の(夢とは関係ないところでの)「さっきまでの私と今の私は、同じ私」と言う自己同一性と、夢のなかと夢から覚めている時の同一性「さっきまで(夢のなか)の私と今(夢から覚めている)の私は、同じ私」は、同じ同一性と言えるのか。

そもそも、夢のなかの私と、夢から覚めている私の間に同一性は必要なのだろうか。
夢と夢から覚めた後の混同による混乱を防ぐと言うことを考えたのなら、寧ろ夢のなかの私と夢から覚めた後の私に同一性などないほうがよいのではないか。

しかし、今こうして思索しているのも、さっきまで夢のなかにいたのも「私」なのだ。
そうやって同一性は存在して、「夢から覚めた」と言う意識(感覚)に、夢と夢でないものの線引きを頼っている。

夢のなかの私と夢を見終えた私に同一性がなくなってしまうと混乱が起こると言うのならば、夢と現実(夢ではない日常)との断絶が起こっていないことを表しているのではないか。

例えば夢のなかで、自分ではない誰か他人になったとしても、その「なった」は、その人物になっている訳ではないだろう。
「その人物になった」と言う感覚と、自分の想像したその人物の立場を〈私〉が経験していることを、「なった」と表現しているだけだ。

つまり、起きていても、寝ていても、〈私〉は、私のなかにしかいないと言うことだ。

私は〈私〉しか体験していない。

しかし、「体験していない〈私〉」もある。
夢を見ている私は、目を閉じて横たわっている私を体験していない。

夢を見ている時、目を閉じて横たわっている私は〈私〉ではないのだろうか。

夢を見ていると言う行為の主体は、横たわって目を閉じている私なのか、夢のなかの私なのか。
夢のなかで何かをしている時、その何かを〈する〉の主体は夢のなかの私だろうか、横たわって目を閉じている私だろうか‥
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2013-04-26(Fri)

いろいろ

■人が自分の体験を物語化するとき、新しい物語としてつくりあげるより、テンプレとしてある物語の型に押し込めてしまうことの方が多いと思う。そして、前者より後者の方が物語化のさい取りこぼすものが多い。
あと、体験を事後的に物語化するのではなくて、あらかじめ用意された物語にそって体験を操作しようとすることもあるように思える。予定調和を外れる(何かを期待する)のを恐れている(?)。
この場合、体験をそのまま汲み取る気なんてさらさらない。
用意してきた既存の物語にしかき興味がない。

■「その言葉と、その言葉と繋がるイメージ(意味)」の、その「繋がり」(直感)に対しての疑問符を留保しないとイメージを保つこと(言葉に形態を持たせること)はできない。不意に思考停止(疑問符の留保)が解かれて繋がり(直感)が外れる時にゲシュタルト(形態)崩壊と呼ばれるものが起こるのではないかなと思った。

■作家にとってある種の孤独感、「自分の感じていることは誰にも理解されない」は、そのまま「『予定調和な表現』を抜け出せる可能性」なのかも知れない。
その「誰にもわからない」を他者が経験できる、もしくは、知りえる手掛かりが作品に表れたとき、「自明なことの表現」から外れることができるのでは‥

■自作品が「何の」反映の表れであるかを正確に把握できていると作家自身が思い込むのは思い上がりかもしれない。
その把握は「反映」のある側面を抽象(捨象)した把握になるだろうし、その把握が帰属錯誤であることも大いにあると思う。
「私はこう言うつもりで作品を作ってる」と言う作者の主張だけが絶対(常に正しい)なら、その主張(作家の意思)とは違った解釈(作者とは異なる側面の「作品に反映されているもの」の読み取り)からの批判が無条件で無効になってしまう。

だけど、「私はこう言うつもりで作品を作っている」を保留(作家が責任を回避するために)に出来るとも思ってない。

■無意識が処理する情報量と意識上で処理できる情報量では、無意識が処理する情報量の方が圧倒的に大きい。
無意識がとらえたものを意識上にあげるとき、既知にそって精製がなされるとしたら、不純物として取り残されたもの方にゲシュテル(形態化)されなかった未知が残されるのかも知れない。
作家は、その言語化不可能な「それ」(未知)を無自覚に汲み取って、知らず知らず作品の何処かへ潜ませることができる存在なのかも知れない。

■私が「私」と言ったときの私とは「意識」のことだろう。しかし、私より大きな私(無意識)を私は他者のように知らないのだ。だけど、私がその私を他者ではない(知っている)かのように振る舞える(混乱せずにいれる)のは、その私が私にそう思い込ませて(統合して)くれているからなのだろうか。

2013-04-01(Mon)

何か

仏壇みたいな半身の女二人

幼い頃に抱いた性へのおぞましさを想い起こす嫌ったらしい口づけ

縫合痕のケロイドがボールのように丸まったもの

或いは何か別の意識の様なモノによって、生き写しかのように動作する

幽霊に生まれ変わろうとして

人造臓器の中で半分に潰れた電機毛布

濡れたコンクリート台の上に胃痛が転がって
下には宇宙服が棄てられていた

切断され青ざめた腕が複数本ていねいに収まっている

トルソーに内蔵された会話に、ミラーシートに性器があるかと言う話題で始まるものがあった

回転の断面は袋に入ったまま

決して適量の一般性ではない

切った爪を泣きなが尿道に詰め込む男の子

幾百の気がふれると思った日に先駆けて実る牡蠣

四本指のドラッグクィーン

再燃する夜行性の骨


辺り一面ギンヤンマ


毛深い晩に腸詰めの貴女


流れる体表に飲み込まれるようにして在る秩序めいたものが唇を開けて待っている

それを敢えて名指すならば

トラウマ



タイトル:トラウマ
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鳥はとびつつ老いてゆくのみ

Author:鳥はとびつつ老いてゆくのみ
かく撃ち抜かれたる兵士の眼

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