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2013-05-30(Thu)

いろいろ

■自分(の経験や心理)を根拠にした(相手に投影する)コミュニケーションの悲劇は、自分自身のことはわかっている言う思い込み(感覚)から始まり、自分のことがわかると言う感覚の延長に他者も同じようにして在り、その方法で他者も扱えると思ってしまうことで起きている気がする。

コミュニケーションなんて成功だって失敗だて(偶然だと言うことを)経験してきてる筈なのに、何故かその経験だけは忘れて「伝わるものだ」と言う、「必然」を前提にするからおかしなことになる気がする。

コミュニケーションは常に誤解を包含していて、先ず誤解があってその誤解と発信者の意図の一致(重なり)の偶然~蓋然性が「理解」(コミュニケーションの成立)で、必然的な伝わりと言うものはないんじゃないか。
普遍的に「意図の伝わる確かさ」を確実に担保できた「過不足のないメッセージ」なんてものはあるのだろうか。
誰かにとっては言葉足らずのものが誰かにとっては冗長的(情報過多)であることはあり得ると思う。
そして、不足は不足のまま留保せず、経験や自分の心理で補完してしまい他意を読み取ろうとするし、冗長(余計なこと)には経験や自分の心理を投影して他意を読み取ろうとする(「他意を読み取る」から「余計なこと」なのか、鶏が先か卵が先かの循環になってしまう言い表し方しか思いつかなかった)。

■人間が他の哺乳類に比べて、眼の「白目の占める割合」が大きいのは、そのことによって黒目の動きが顕著になり、それによりそこへ情報が表れる作用が高まるから。
仮面(または、表情をなくす程の厚化粧)と踊りの親和性は、顔の表情にあった情動の表れを身体に譲り渡す、と言う構造として在る。
他方、仮面を着ける者が動植物、自然物(に宿る精霊)、神、悪や正義そのものにまでなりきれるのは、表情を隠すことによって読み取られる「私」が断ち切れる(失われる)確信に立脚しているのではないかなと思った。

■作家が、作品の表層の部分を「私にもできる」と思われるのを嫌う(怖がる)ことには、その作用で「私にもできる/私には作れない」と言う表層部の問題に多く留意し続けてしまうと言う落とし穴があるんじゃないかな。

■「死にたい」と言うのは、最悪の気分を形容(比喩、隠喩)したものだろう。
世の中に隠喩も死も溢れているのに、何故「死にたい」は特別、目くじらを立てられるのか。
それは、ただ不快なんだろう。
なぜ不快なのかを説明しようとしても 、それこそ、ただ「不快」の隠喩の延長にしかならないと思う。
「死にたい」以外に形容し難い気分を知っている人はその不快感に寛容になることがあるのかも。

■「私のことを考えている人しか私のことを救えない」と思い込むのは、救われると言う出来事をどこか機能的に考えているからだろうか。しかし、実際にそれと巡り会えたとき本当に救われたと感じることができるかはわからない。何が自分を救うのかと言うのは不可知。欲望と分けて考えれていないだけ。

■「やくにたつか/たたないか」が結果論でしかわからなくて、「役に立つ」ものを増やしていきたいなら「役に立つか役に立たないかわからないもの」を担保していくしかない。

■一回の恋愛に払うコストが高い人ほど少ない回数の失敗で「自分には資質がない」と見切りをつけてしまうのは当たり前だと思う。(「コスト」なんてものじゃ汲み取れないものだろうけど、敢えて狭隘化すると)

■自分がわかることを他人はわからないことはあるし、他人がわかることを自分はわからないこともある。そんな当たり前のことを瞬間とは言え忘れて憤慨したり優劣を錯覚したりする。しかし、そんな瞬間的に垣間見ることのできる(隠しきれずに度々前面化してしまう)ものこそ本性(根底に常にある)だろう

■作家が作品を作るとき、日常に順化した感覚から抜け出そうとしているのならば、物事を自分の規定できる領域に落とし込んで把握すると言う悪習(作家にしてみれば)から遠退かなければ。
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Author:鳥はとびつつ老いてゆくのみ
かく撃ち抜かれたる兵士の眼

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