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2013-06-26(Wed)

いろいろ

■人の能力が現行の社会状況によって規定されるなら、現行の社会に適応/不適応な性質がグラデーション的に在って、そのどこかに位置づけされるように人々がいて、社会によって介助される/されない
のラインが引かれ、されない側ぎりぎりで、「バカ」とか「能力がない」と揶揄される人達が一番歯を食い縛って社会のために堪えてる人と言える気もする。
介助の内容もグラデーションだけど、線引きの「線」周辺は「あまえるな」とかそう言った言葉を受けているんだろうな。

■「私はこう言う人間です」と自己申告することと、その人がその人の言う通りの人間であることは別とするのに、作者が「この作品はこう言う作品です」と申告することと、その作品がその作者の言う通りのものであることは別の話にしないのはどう言うことなのだろう。
「作品は、ある意図に基づいて制作されるからだ」としたら、「私はこう言う人間に成りたい(見られたい)」と言う意図にそって行動した人がいても、結局、その人が意図したような人間であるかどうかとはやはり別の話になると思う。
自分自身のことと、自分から離れた作品は違うと言うならば、自分から離れた「発言」にも同じこといえる。

しかし、言葉こそその人自身と言われたらちょっと考える。

何か他意のある曲解を除いた批評に対して「作者の意図とは違う解釈なのでその批判は妥当ではありません」のような反論が有効かどうか?

■例えば、作家が、自分やってるこを、「社会に必要なの?」と嘲笑された時だけ、その一般的価値を認知できずに憤慨したりするのに、自身は普段あるものに対し直接触れることもなく、流布された価値や文脈を疑うことなくその通りに扱う。自分がされて憤慨したことを他のものや人にしていることに無自覚。
最終的に、その態度を、「人間てそんなものじゃん」と開き直る。
「だって人間だもの」を他人が自分にかける迷惑を許容するときに使わず、自分が他人にかける迷惑に対しての寛容さを他人へ強要するとき使う。


A
感謝されなくてもいい、もしかしたら相手に喜ばれないかもしれないけど考え抜いた末の行為。

B
他はなにもいらないけど相手に感謝されたい、喜んでもらいたいから善行をする。

C
名声(売名)やお金、恩を売るための善行。

D
相手が損害を被ると知っておきながら善行を装って行われるもの。

A.B.C.D.の間で、「善/偽善」の一般的な線引きはどこだろう?
勿論、それぞれの間はグラデーションだろうし、例えば、「この金額じゃ見合わないけど、見合わない分は感謝してくれたらそれでいいや」と、複合的な動機だってあるだろうけど、強引に分けたからこんなんかな?

「A」は、「もしかしたら相手は喜ばれないかもしれない」と、書いたように、善意からの行為でも相手に何らかの不利益がおこるかもしれないと言う疑いを常に内包していて、正しさの盲目性を意識する困難がある。

「B」は、感謝されなかった、喜ばれなかったと感じた時に、不満が表れて、攻撃性に転じる場合だってあるかもしれない。
だけど、多くの人は善行めいたことに感謝を示すと思うし、実際、感謝されたい、喜ばれたいと言う動機の行為は社会の色んなものを賄ってると思う。

「C」は、「お金」と言うことで考えると、お金のない人が救われることはないけど、お金が発生するだけに、他よりは利害を一致させやすい気もする。
そして、お金のために何かするって言うのはいまの社会の「当たり前」だと思う。「当たり前」だから善行とは呼べないのかもしれないけど、いまの(あくまで“いまの”)世の中からなくなったら一番にっちもさっちもいかなくなるやつかな?と。けど、お金と取引されるものをわざわざ善行と呼ぶかと言うの話になるのかな?
善行と、におわせることで利益の増分を狙うかどうか?と言う話は「D」に近いのかな?

「D」は、多くの人を傷つけるだろうからない方がいいと思うけど、感謝や喜びの主体が相手で有る限り、騙すつもりの行為も絶対相手が救われたと感じないとは言い難い。

僕は、善/偽善のラインは、BとCの間に引かれるんじゃないかなと思う。
お金等を求めるものを善行と言うのは偽善ではないかと、だけどお金のやり取りが少しでも生じているものでも、例に出した「この金額じゃ見合わないけど、見合わない分は感謝してくれたらそれでいいや」の「感謝してくれたらそれでいいや」の部分は偽善とは言えないと思うからややこしい。

善/悪の判断は、動機が何だろうと起こった結果で判断されることもあると僕も思います、しかし、善/偽善は結果論ではなく動機でしか判断できないのじゃないのかなと‥
善意が人を傷つけることもあるし、悪意によって結果的に救われたと思う人が出ないとも言い切れないですもんね。
「そんなことない」と言う人もいるかもですがそれは希望的観測だと思います。
でも、結果論的善悪の判断だけも不味いんじゃないかな、とも思います。
善(正しいと言う思い込みが)悲劇を生むことも沢山ありますが、善意によって支えられているものもやはり沢山あると思いますので。

■現行の体験が類型の体験の記憶を引っ張り出してくるなら、例えば、ある体験が過去にあった嫌な出来事を想起させるから嫌であることと、その体験自体が嫌あることとが混同されると思うけど、混同と言うより、もしかしたらこの二つは不可分なんじゃないか?

■「他人に興味がある」と言っても、「その気持ちわかる」と言うように「わかること」へ寄っていったら、結局「自分」へ収斂してゆく。
引きこもって本ばかり読んでいても、他人の書いた文章の「わからない」部分に食らい付いていく人の方が、もしかしたら開かれている人と言えるのかもしれない。

■「ネットサーフィン」の語感に、バブル期の余韻を感じる。

■エイリアン2は、エイリアン(未知)をえがくために、「エイリアン(未知)」を「意志疎通の出来ない不気味さ」に狭隘化して、既知のもの(蟻や蜂)に落とし込んでしまった詰まらなさを感じる。
と、言いつつ、未知のものを未知のままにえがいた「2011宇宙の旅」より楽しんで見れるのはエンターテイメント的だからだろうけど。
エイリアン3は、2でインフレを起こしたエイリアンを、状況を変える(舞台が刑務所)ことで「一匹でも手に終えない」と言う緊張感に戻した。

■取っ組み合いの仲直り。
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