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2014-10-24(Fri)

いろいろ

■世界の明瞭さ(自明性)は思い込みよってに支えられているから、専門的なことを知って思い込みが解かれていくほど世界はカオスになっていく。
専門化と言うのが抽象化ならカオスになっていくのは当たり前なのか。
具象の最大単位が世界だったとしたら、そこから抽象的把握をしていってる。
でも「世界」と言われて思い浮かべるイメージは抽象的だ。
そもそも、人(人に限らすどの動物も)の感覚器官では抽象的認識しかできない。
人は世界と抽象的にしか関われないのかも。

■格言、名言、ことわざ、教訓って、例えば「人間性は顔に表れる」と「人を外見で判断してはいけない」みたいに背反する言葉が残ってるけれど、こう言うのは状況や立場に合わせた都合的な引用ができて「そう言う需要がある」から残ってるんだろうなって思ってしまう時がある。

■西洋美術の文脈でなければ、売れなければ、有名にならなければ意味がない、と言う狭隘な美術観に出合った「絵を描くのが好きで、小さな頃から描いていた人」が、絵を描くのをやめるのを見るのは気持ちよくはないな。
売れるとか有名になると言うもののために、既に手に入れている「絵を描くのが楽しい」と言う幸せを捨ててしまわなくてもいいのにって思ってしまう。

■作者と作品の関係を親子関係になぞらえることにどれ程の妥当性があるか疑問だけれども、作品のコンセプトを考えるのは、親が子にどんな風に育ってほしいか、またタイトルを考えるのは、その想いを込めて名付けることのような楽しさかも知れない。そして、親の想い(作者の意図)を越えて(裏切って)自分の手を離れて行くのは喜び(または悲しみ)なのかも知れない。
そうすると、コンセプトを立てない(少なくとも意識的には)主義の作家は、作品に愛情(手間暇)さえ注げ(かけれ)ばいい子に育ってくれると言う親のスタンスなのかも。
こんな例えは不謹慎かも知れないけれど、作者の意図に作品を閉じ込めようと、過剰にコントロールしようとする(できると思う)のはアビュース(乱用、虐待)なのかも知れない。
また、作品(子供)を自分の存在証明のように扱うこともアビュースの一つとも取れる。
まあ、作品は子供ではないし、作者も親ではないのだから言葉遊びに過ぎないのだけど。

■辛さの表出のし方は多様だろうけど、たぶん僕は直截的なモノしか分からないだろうし、わかっていても気に入らないものは、無意識的であれ意識的であれ許容してないだろう。
同じモノの別の表れだのにだ。
そもそも「いい人/悪い人」が、自分が「気に入る/気に入らない」のメタファーになってるのに、そんなんでどうやって人を救うなんてことができるのか。
「『いい人として振る舞わないといざと言うとき誰も助けてくれないよ』と言う教訓」=「『(私が)気に入らないやつは村八分だ』と言う脅し」だ。
救済の「現場」で活動する人ほど嫌なやつ(気に入らない人)を救うことが困難。
だから現場でないところも大事。
いい人だけが救われる世の中になるなら、人間は理性的であると言う使命に失敗したと言うことになる。

■「正義ならば暴力が許される」と言う教えは、「人は常に自分を正義(正当)化している」と言うことがわかってない。
寧ろその教えが暴力を正当化させている。

■「意識(主体)」は「自己救済の痕跡」と言う側面が大きい気がしている。

■アートは、未知(他者性)を既知に落とし込んで(所有化して)表現したものではなくて、未知(他者性)を未知(他者性)のまま生起させることを出来るのがアートで、「芸術とは何か?」と言う問いは、芸術(作品)の所有化のプロセスだから、その解はアートのアート性を去勢した解になる。
これgenbaken.com/contents/discu…の冒頭の解釈。

■「自分を大切にする」ことが「思慮深くなること」ならば、「好きなように振る舞う(自分の衝動に従う)」事と「自分を大切にする」事は対立することが多いのかも。
違う言い方をすると、「一見『自分を殺す』と言われる様なこと(しかし他人の為に自分を殺すのではないけど)」と、「自分を大切にすること」は両立する、とも言える。

■主体が客体(意味をつけられる以前のもの、意味をつけられる対象)に意味を与えているのならば、「意味」の本質は「後付け」と言えるし、主体が客体のアフォーダンスを受け取っているのなら、意味は主体に先駆けて在ると言える。
主客未分観http://t.co/ocVcMxjbss は難しいから、何となくの把握なんだけれども一番しっくり来る。

■コミュニケーション能力が「配慮」ならば、有償の配慮は配慮ではないので、その言葉は常に片道だけのもの。

■夕日や虹、雪景色と言う自然や宝石や夜景を綺麗だなーと思うのは日常的感覚(または、その延長)で、アートは日常的感覚から逸脱した感覚を楽しむものだから「人がどんなアートをつくっても自然には敵わない」と言う類いの話は(個人的には)ズレてると思う。
「人がどんなアートをつくっても自然には敵わない」には、「アートは何かの『模倣』」と言うアート観の片鱗が伺える。
そして、自然の美しさに立ち向う美術観は、何となくイカロスの話を彷彿させて、それはそれで儚くていいなと思った。
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2014-10-12(Sun)

人形

二日続けて人形(両日、球体間接)の展示を観たので、思ったことを書く。
昨日みた展示 http://www.t2y.info/exhibition01/3504.html の人形は、それぞれ別の顔なのにどの人形もどこか作者に顔が似ている印象で、人形自体もそうだけど衣装や小道具、ほか合わせて、そのこだわり、仕上がりに神経質にも似たストイックさを受け取った(不快とは違う)。
同じ会場に別の作家の大変高価な作品が展示されていたけれども、その作品の前に立つより緊張感があった(決てその別作家の作品が緩いわけではない)。
人(少女、女性)の形であることも関係あると思うけれど。
今日みた展示 http://www.yaso-peyotl.com/archives/2014/10/k_kominka.html の人形は、体の一部が不足していたり、体に穴が空いていて伽藍堂であることが晒されていたりする人形も一部あった。
その人形の前に立った時は昨日の緊張感とは逆と言ってよい落ち着きを得た。
これは、昨日みたものと今日みたものの優劣の話ではなく、只の「違い」で、おそらく自分の趣向が関係している。
自作品に、体の一部が不足していたり、体が伽藍堂のものが登場するのだから。

ところで、「人形遊び」は大きく別けると二つあると思う。
一つは、人形を愛でる対象(またある時は憎む対象にもなるのかもしれないが)として扱う「ごっこ遊び」で、ママゴトのなかで母子関係を摸倣したり、友達の代理としてだったり、「人形を『誰か』に見立てるもの」である。
人形との母子関係は「親に愛される」と言うインプットに対してのアウトプット(模倣)なのかも知れない。模倣と言う過程を経て愛し方を学んでいるのかも。
ラブドールもパートナーの代理だからこれと同じと言えるのか。(人形でないとダメな人にとっては代理ではないと言えるのか)

そして、リカちゃん人形やバビー人形等での遊びの場合、その遊びの中に自分の肉体が不在の場合があると思う。
それがもう一つの遊びで、「人形による自分の代理」である。
リカちゃんを友達(他人)に見立てることもあると思うけれど、リカちゃん(人形)を自分に見立て遊ばせるもの。
その時、他の人形を友達に見立てたり、友達が他の人形に自分を見立て、遊びのなかそれぞれが体を消して、それぞれの人形がそれぞれ自分、また友達を振る舞う。
これはカイヨワの遊戯論 http://www.geocities.co.jp/Bookend-Shikibu/3818/books/asobi.html で言うと「模倣」(ミミクリー〔ごっこ遊び等〕)なのか、それを逸脱しているのか。
「自分」を人形に振る舞わせる感覚は日常的感覚からズレる「目眩」(インリスク〔ブランコ等〕)なのかも。

ついでにもう一つ、人形遊びには「『自分』の完全な不在」もあると思う。
どの人形も自分ではなく「自分」はストリーテラーと言う「外部」である。と、言う遊びもある。けれど、これは置いといて。

そして人形自体の話に戻るけれど、球体間接人形は、さっき上げたの二つの遊びの、「自分の代理」の方が目的であるような気がする。特に作者にとって。
ごっこ遊びに留まるだけならば、間接のない腕や脚を「動くてい」でいけ(見立てれ)ばよいだけなのに、そこにわざわざ間接があるのは「私の身体」だからだ。
決まったポーズが嫌だからと言う心理があったとしてそれを理由に間接があると言う説明も実は「自分が決まったポーズだけをとり続ける(動けない)のは嫌だ」と言うところが先にあって、そこから来ているのかも知れない。
では、「私の身体」ならば何故に体が不足していたり伽藍堂であることが明らかな人形を作るのか。
これは、その人形を前にして心地良かった僕が知っている、それが「理想」だからだ。
それが理想である理由はそれぞれだと思う。
そして「間接がある」ことと、「体の不足」は矛盾して聞こえるかも知れないが「そうでなくては困る(そうあってほしい)」と言う動機が同じなのだ。
リカちゃんやバービーのスタイルのよさと同じものだ。

「自分の身体の代理」ならば「球体間接人形」より「操り人形」がそれではないか。と、言うことがあるけれども、操り人形は寧ろ、操る人の身体がなければ成り立たず、「身体の不在(代理)」ではなく「身体の延長」の様な気がする。
そして、「代理」ではないので、一体を複数人で操る人形があるのだと思う。

2014-10-04(Sat)

いろいろ

■「自分のことを理解してほしい」と言う欲求は、いつからあったかは忘れたけど、永いこと自分にもあったが、いつの間にか消えていた。
消えたのか、自覚できないほどに矮小化したのか。
年齢のせいなのか、それとも理解してもらう「自分」と言うものが、自分にとっても(とってこそ)不明瞭なモノだから理解されたかどうかの判別なんてつかないなんて思ってるのだろうか。
「自分のことはわかってる」と言う意識は、まさに把握不能の領域(無意識)の仕業に過ぎない。
実際、自分の思い描く「自分像」が或経験によって脆く崩れ去り、裏切られると言うことは多数の人が経験済みだと思う。
しかしそう言う経験はだいたい、「人間てこう言うもんだよな」等と、みつを方面へ回収されてしまう。
自己の把握に「人間」なんて大きな網を持ち出したら引っ掛からない訳がない。そんな巨大な単位を使う以前に、自分のことを把握可能と言う前提の方を疑う方が自然だのにだ。

■もし芸術観が一様なら「私でない誰かがやる(やれる)事」はそれで「食っていける人」しかやらないだろう。にも拘わらず、それだけでは食っていけず貧乏してまで作家している人が多くいるのは、芸術観が多様で作家によってバラバラだと言えて、その自分の芸術観を信じ制作しているからだのと思う。
で、その多様さがアートを活性させてるのだとも思っているから、芸術のマイナー性に焦燥して、他人の芸術観をただ罵倒して去勢しようとするのはアート全体のマイナスなだけな気がするのだけど。
目的が明らかでないものに対しての合目的性の有無は果してどうやって明らかになるんだろう。
作家が他の作家に対して「センスないよ」と言ったところで、そのセンス(合目的性)は「センスないよ」と発言した方が一方的に設定した目的に対する合目的性(センス)になる。
センスの有無は目的の共有が前提。
自分の目指すゴールと、他の人の目指すゴールは別なのに、皆が自分のゴールを目指していると言う思い込み。

■ その事件の当事者ではなくても、その事件を聞いた段階で「その事件を聞いて不快な感情が起こった当事者」になってしまいますから、「同じ様な事件が起こらないようにする」と言う問題より、「その事件に対する感情の解消をどうするか」と言う問題が先立って、その解消の方法として攻撃性を解放する(加害者を叩く)を選択してしまう例が多いのだと思います。
二次災害みたいなもんだと。
かと言って、報道しないわけにはいかないので、二次災害を常に乗り越えなければいけないのだと‥

■体が成熟するころ(思春期も終わる頃)の「無知ゆえの達観」を挫いてくれる役割の他者が傍に居ることは幸福だと思う。
ニヒリズムや狭隘な世界観の合理主義に陥ってるところに自分の無知を暴いて鼻っ面に突き付けられるのは運がいい。

■恋愛に依存するのも、恋愛を拒絶しているのも同じようなものだと思う。
「拒絶」は依存の怖さを知っていて恐れている状態で、つまり「依存」が前提にあってそれの裏返し。恋愛拒絶は「恋愛依存の潜在態」と言えると思う。

■個人的な合理性しかないなら、それに合わせて「頭のよさ(合理)/頭の悪さ(不合理)」がモデリングされているんだろう。
個人が個人(自分)の合理性に従って生きてるのを顕著に表す言葉は「バカばっか」だと思う。
他人が自分の合理性にそぐわない生き方をし(違う文脈で生き)ているのは当然なので、自分の合理性を普遍視したら「バカばっか」になるのは当然。

普遍的な「頭のよさ(頭のいい人像)」なんてなくて、みんなそれぞれ、「自分に理解できることを言ってくれる人」(頭のいい人像)とか、「自分の長所の延長にあるモノ」(頭のよさ)とか、自分の都合で「頭のよさ(頭のいい人像)」をモデリングしてる。

■ネット上に「死にたい」等と書き込むことに対して少なくとも表立って不快感を示すことのなかった「辛くても表に出さないタイプ」の人が、「あいつは苦しんでるけどお前は気楽でいいな」と言う外貌主義との接触をきっかけに「死にたい」に対して表立って批判的になることはもしかしたらあるんじゃないか。
だから実は、「死にたい」に気づかいを見せてる人が、「死にたい」に批判的な人を生産しているかも知れない。

■作者が作品への影響を語る(または暴かれる)と、観手(消費者)が、影響関係だけで、その作品をわかったつもりになって「なんだ、真似かよ」と見切りをつけてしまう態度が、作者の影響の隠蔽に繋がっていることもある。
もちろんそれは隠蔽を正当化できる理由にはならないけれど。
影響関係を明らかにすれば「なんだ、真似かよ」と見切りをつけられてしまう中で、影響関係を隠蔽するのは合理的と言えば合理的と言える。
合理性と「正当/不当」は関係ないけど。

■子供の頃、親に買ってもらった恐竜図鑑に、節足動物が巨大だった時代の、たぶん海底(水が再現されていなかったので当時は陸上だと思い込んでいたけど)の再現模型のモノクロ写真が載っていて、見馴れない巨大な節足動物と見馴れない植物(やイソギンチャクみたいなもの)が入り乱れてたその白黒の写真は見てると不安になった。
本編の恐竜のことは殆んど覚えてないけど、それは強烈に記憶に残っている。
引っ掻き傷的なモノの方が記憶に残っている。
当時は多分、模型とすら思ってなかった。
過去に実際、誰かが実物を撮ったモノだと思ってたと思う。
恐竜の方が絵と化石の写真で、「恐竜の不在」を顕著にしていて、それが節足動物の模型の白黒写真にリアルさを与えていたのかも。

■人って、解らないモノに対して「結論を急がず保留にしておく」をするのに気持ち悪さを感じる様に出来てるような気がする。
進化の歴史で見たら「目の前の事を保留にしておける『余裕』」なんて手に入れたのは最近なんだと思う。
だから、早合点したくない場合、反射的な決定から、撤回、保留、と言う流れで、保留に持ち込むのがよいと思うのだけど、最初の印象を払拭(して保留に)するのも同じくらい困難なことなのかな。

■その人にとって耳触りのよい言葉は、往々にして耳触りのよさだけを与えてその場に定点させる。
むしろ、変化しないことの正当性を得られるからこそ心地よい(耳触りがいい)のかも知れない。
それ自体は良いことでも悪いことでもないけど、その効果がその言葉の過大評価に繋がってることはあるんじゃないか。
それがその人の評価軸になってるから当たり前なのかも。

■寺山修司は「想像力より高く飛べる鳥はいない」と言っていたけど、人が自分の想像力と思っているものは往々にして片翼に思える。
ある事を想像するときその死角になる部分は暗部のままで終わることが珍しくない、と。
そこを補完できたものが寺山修司が言うような想像力なんだろうけど。
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鳥はとびつつ老いてゆくのみ

Author:鳥はとびつつ老いてゆくのみ
かく撃ち抜かれたる兵士の眼

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