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2014-12-09(Tue)

いろいろ

■何となくあった「どうとでも言える」に対する違和感の正体は、「どうとでも言える」と発した側が肝心の「どうとでも言える」から免れている様な態度であることが多い気がすることからきていることがわかった。
「どうとでも言える」は相手の言い方も自分の言い方もどんな言い方も等価になる(当てはまる)※筈なのに、自分の言ったものを有効のままに(棚上げして)、一方的に相手の言い方だけを「どうとでも言える」によって無効にしようとしている気配を感じる。
別に「どうとでも言える」に限らず、こんな様な魔法の言葉(都合的に使われる言葉)は世の中に溢れてる訳だけれども。やっかいなのは使ってる本人(自分を含め)が魔法の言葉と自覚せずに、道理が通ってると思いながら使っているところ。

※常に内容が問われるべきで「どうとでも言える」で等価になるとは思っていないけど、百歩譲って等価になるとしたら

■人は救いを求めていても自分が何に救われるかすらわかっていないんじゃないか。「こうなれば私は救われる」と言うものが明確にあったとしても、それは「求める救い」と「願望」が混同されていることがある。「こうなれば」が実現されたとしても、そのとき実際に「救われた」と思えるかは別の話。
そして、考えもしなかったものに救われることもある。
人の意識に上がってきた時点で様々なモノが混同されている、その混同こそ自分を(無意識に)救った痕跡なのかも知れない。

■「他者のことはわからない」と言うこと(前提)から展開されるものがニヒリズム(虚無主義)しかない、と言う「想像力の狭さ」が「コミュニケーション至上主義」の正体なんじゃないか。

■展示観るとき、できたら誰もいないところで観たいと思うことはよくあるけれど、そのために作品を購入するって動機の人もいるんだろうな。

■性欲も、恋愛欲求も、生殖本能の一部なのに、性欲は男女で非対称性が顕著なのに、恋愛欲求は対称な位な気がするけど、男の恋愛欲求は性欲のメタファーだったりするみたいな見誤るカラクリでもあるのか。
そもそも恋愛欲求と性欲に明確な線引きが可能かどうかわからないけれど。

■二項対立と思っているものが、グラデーション的(地続き)な「差」でしかないことはよくあるし、また同じモノの別の側面だったりすることもある。

■日本人にとって西洋人が提示した洋和(亜)折衷がただの不協和音に終わってることが少なくない様に、西洋人にとって、日本人が提示する、和洋折衷がただの不協和音に終わっていることも少なくないんだと思う。と言うより、これはもしかしたら、一方の文化の眼差しから見た成功は、もう一方の文化の目差しからは失敗に見えるものなんじゃないか。

■例えば、僕は「意中の特定個人を射止めることが重要なのであって、その個人以外の不特定多数に好かれることは意味がない」と「モテる」ことに価値を見出してないけれど、それは、まず「自分がモテないこと」が先にあって、その「自分」を救うためにモテることに価値がなくなる(ないように見える)ようロジックを組み立てているのか、僕がモテない事と、そのロジックは独立で、ロジックは(僕の中で)整合性に支えられているのかは分かり様もないことで、続いて僕が、モテることに意味がないと思っているのは、後者のロジックの整合性に依拠したものと思っていても、その意識の当事者の自分がそう思うからと言う根拠は「思い込み」以上のモノではない。
そもそも道理の整合性のあることがそこまで優先されていることなのか(生存的に)が疑わしい。
「私」というモノが意識圏内だけで駆動しているモノならば、例えば「リンゴを取ろう」と思うのにも「『リンゴを取ろう』と思おう」と言う「意図の意図」がなければならないけれど「意図の意図」はない。
それどころか、最初の「リンゴを取ろう」すら思わずにリンゴを手に取ることの方が多いと思う。
視界には本来そこになければならない(黒いなり白いなりなの)「外」がなく切れ目がない様に補完されている。その様に、意識の外も意識は「ある」とか「ない」とかも意識できないように取り繕われている。
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2014-12-08(Mon)

不羈魂邂闢

総合表現イベント(とでも呼んだらいいのか)不羈魂邂闢に行ってきました。
様々な表現(「表現」という書き表し方は好きじゃないけど)が垣根なく催されるイベントであった訳だけれども、他のジャンルの感想は他の人に任せて、催しのなかの一つ、ライブペイント(を含むパフォーマンス)についての感想を書きたいと思います。

パフォーマーは、MADBLAST HIRO×Takuya sumiと言う方々。
パフォーマンスの内容は、リジュリドゥと言う見慣れない管楽器の演奏(Takuya sumi)と共にライブペイント(MADBLAST HIROさん)が行われて、更にそこへプロジェクションマッピング(YAMさん)が施される。
ライブペイントの内容は、段ボールで作られた四角柱を支持体に、上面と底面を除いた四つの側面にアクリル絵具か、臭いがしなかったので水性のペンキ(とにかく多分アクリル樹脂系)を使ってペインティングしていくものだった。
ペインティングの内容はタトゥーの様な(模様と言ってよいのか)柄を、まず白の絵の具で描いてゆき、それを終えると重ねるように黒の絵の具でも描いてゆくものだ、四角柱を回して周回するように描かれていった。
そこにプロジェクションマッピングが行われてたのだけれども、プロジェクションマッピングは対象に投影された映像を(も含めて)観るものだが、当然、映像(光の反射)と同時に影も顕在することになる。
パフォーマンスはステージ前に下げられた幕の前で行われていて、プロジェクションマッピングの投射によってその幕に出来た四角柱の影には、ペインターが描いても描いても何も影響しない(厳密に言えば絵の具の盛り上がりが影に影響しているのだろうけれど、目視はできなかった)。
つまり、立体物(四角柱)の表面に絵の具によるペインティングや、投射によるマッピングによって平面的な作用があって、そこにあるものには平面性と立体性と言うバラバラのものが兼ねられていたのだけど、そこで一旦曖昧になった平面(ペインティング、マッピング)と立体(四角柱)の境界線が、光(影)によって立体だけが抽出され、再び明確に引き直されていた。と、言う面白い構造が生まれていた。
あと、描くのを見ていて思ったのは柄の外枠、輪郭線を引く(ドローイング)のはライブ(即興)的なのに対して外枠の中を塗る(ペインティング)のは常に予定調和的であった(ただ結果的にそうなっただけかもだけど)。
もしそうであれば、ライブだったのは、ペインティング(塗り)ではなくてドローイング(線画、下絵)だったのかもしれない。即興と予定調和が同時に存在していて面白かった。
以上、パフォーマンスの感想でした。
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Author:鳥はとびつつ老いてゆくのみ
かく撃ち抜かれたる兵士の眼

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