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2013-03-15(Fri)

色々

■あるものを観察した時、それをどう捉えるかは観察する主体の知識(経験、偏見)に依存する。
観察対象がどのようにあるかは、自分がどのようにあるかを示す。

■あることを「正義」だとした場合それに反することに対しての怒りは「正当」になるので、その怒りには枷がない。
一つの社会で自明的な価値にそった感情ほどそうなる。
例えば、「友達は大切(にしないといけない)」な社会で「友達を馬鹿にされたから怒る」ことは咎められない。それが、感情の大きさ(解放度)に関係していることはあり得るんじゃないか。

■多くの作家は「私の作品をどう受けとるかは受け手の自由」と言うけれど、 それは「作品の持つ自由さ(解釈幅の 広さの演出)」や「観者の見方の尊重 」に寄るところよりも、実のところ、 伝えることの「困難(不可能)性」によるところが大きんじゃないのか。「 受け取りかた(解釈)の自由」に委ねるしか手がない状態。

■自分がいい思いをしているものに対しては絶対主義的スタンスで嫌な思いをしているものに対しては相対主義的スタンス、と言うのがまあまあテンプレなのは、いい思いをしているものに対してわざわざそれを崩しにいくようなことはしないからだと思う。

■同じ言葉を使った隠喩でも、使用者が異なればそこに含まれる意味が違うことはいくらでもあるのだから、似たような作品(表出のし方)でも隠喩されているものは多様なんだろう。けれど、受け手はそこ(類似した表出)に隠喩されているものを自分の経験から一義的に受け取ることが多いのではないかな。
「『売っている』からには消費者に親切でなければならない」と言う価値観が、普段アートとは関わらない人がアートに関わらないで居続ける原因の一つとしてやはりあると思う。アートがもし今より投資対象になる要因を持たないものだったらアートとお金の関係はもっと稀薄だっただろう。

■僕は誰かといた時の思い出より一人でいたときの思い出が鮮明だ。これは別に「一人」に思い入れがあるからではないだろうし、「誰かといた時のこと」に思い入れがないからでもないだろ。「記憶」と言うものは脳だけで独立でしている訳でわないらしい。
身体と言う入出力装置との相互関係(相互的刺激)で保たれている。ある病気を患って一時的に寝たきりになった女性がどんどんと記憶をなくしていったそうだが、病気が治り身体を動かせるようになると次々記憶を取り戻していったそうだ。これはこの記憶のあり方かたと関係してそうだ。
そして、僕は一人で過ごす時間が圧倒的に長い。で、それが、身体の体験的に、一人でいる体感の記憶を濃く残すことの原因になっているのではないか、と思っている。
思い入れ≠記憶の鮮明さ
体感的記憶の鮮明さ(記憶の生々しさ)と、そのとき何が起こったかを(言葉で)記憶しているのもまた違うものの気がする。
思い入れが強ければその表象を言葉化し、それをストックして記憶を繋ぎ止めようとするかもしれないが、身体的インプット(体感的に似たものの再体験)による刺激がないと体感的(感覚的)記憶の生々しさは薄れていく。

■ゼクシィはどんどん重くなっていって、「自重に耐えられなくなって絶滅した(んじゃないか)」って言われている竜脚類と同じ轍を踏んでほしい。
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