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2013-04-26(Fri)

いろいろ

■人が自分の体験を物語化するとき、新しい物語としてつくりあげるより、テンプレとしてある物語の型に押し込めてしまうことの方が多いと思う。そして、前者より後者の方が物語化のさい取りこぼすものが多い。
あと、体験を事後的に物語化するのではなくて、あらかじめ用意された物語にそって体験を操作しようとすることもあるように思える。予定調和を外れる(何かを期待する)のを恐れている(?)。
この場合、体験をそのまま汲み取る気なんてさらさらない。
用意してきた既存の物語にしかき興味がない。

■「その言葉と、その言葉と繋がるイメージ(意味)」の、その「繋がり」(直感)に対しての疑問符を留保しないとイメージを保つこと(言葉に形態を持たせること)はできない。不意に思考停止(疑問符の留保)が解かれて繋がり(直感)が外れる時にゲシュタルト(形態)崩壊と呼ばれるものが起こるのではないかなと思った。

■作家にとってある種の孤独感、「自分の感じていることは誰にも理解されない」は、そのまま「『予定調和な表現』を抜け出せる可能性」なのかも知れない。
その「誰にもわからない」を他者が経験できる、もしくは、知りえる手掛かりが作品に表れたとき、「自明なことの表現」から外れることができるのでは‥

■自作品が「何の」反映の表れであるかを正確に把握できていると作家自身が思い込むのは思い上がりかもしれない。
その把握は「反映」のある側面を抽象(捨象)した把握になるだろうし、その把握が帰属錯誤であることも大いにあると思う。
「私はこう言うつもりで作品を作ってる」と言う作者の主張だけが絶対(常に正しい)なら、その主張(作家の意思)とは違った解釈(作者とは異なる側面の「作品に反映されているもの」の読み取り)からの批判が無条件で無効になってしまう。

だけど、「私はこう言うつもりで作品を作っている」を保留(作家が責任を回避するために)に出来るとも思ってない。

■無意識が処理する情報量と意識上で処理できる情報量では、無意識が処理する情報量の方が圧倒的に大きい。
無意識がとらえたものを意識上にあげるとき、既知にそって精製がなされるとしたら、不純物として取り残されたもの方にゲシュテル(形態化)されなかった未知が残されるのかも知れない。
作家は、その言語化不可能な「それ」(未知)を無自覚に汲み取って、知らず知らず作品の何処かへ潜ませることができる存在なのかも知れない。

■私が「私」と言ったときの私とは「意識」のことだろう。しかし、私より大きな私(無意識)を私は他者のように知らないのだ。だけど、私がその私を他者ではない(知っている)かのように振る舞える(混乱せずにいれる)のは、その私が私にそう思い込ませて(統合して)くれているからなのだろうか。
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