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2014-02-07(Fri)

マンタム氏のシュルレアリスム

シュルレアリスム

シュルレアリスムは幻想主義か何かと誤解されているところがある。しかし、シュルレアリスム(超現実主義)は、「現実主義(レアリスム)を離れ(シュル〈超え〉)て幻想に到るもの」ではなく、「超現実(シュルレエル)を実践する(イスム〈主義〉)もの」である。

超現実(シュルレエル)とは何か。

シュルレエルの「シュル」と言う語は「『何か』を超え(超脱し)て、その『何か』ではなくなる」と言う意味合いではなく「『何か』の『何か』性を過剰に得ている」と言う意味合いだ。

続いて、「レエル」(現実)だが、「現実」とは何だろうか。
私達は、何となく現実と思っている物事を「現実」としているだけに過ぎず、「現実」を明確に規定できている人、または、現実を全て漏らさず捉え損ねなく生きている人はいるだろうか。

そんな「『何となく』の現実」を生きるなかで、確かに現実なのだけど「何となくの現実」には見当たらない(心当たりのない)体験をすることはないだろうか。それが超現実(シュルレエル)である。

我々が何となく現実と思っている現実(レエル)のなかに超現実(シュルレエル)はふと立ち現れる。
境界があって、その境界のどこかにある入り口をくぐってたどり着く異界ではない。現実と地続きに存在する。

つまりシュルレアリスムは幻想の世界を紡ぐことではないと言うこと。

マンタムのシュルレアリスム

例えばまず現在Sipkaに常設されている「永久機械」。
永久機械は水が水桶の中に滴り落ち続けるが一向に水桶の中の水嵩は増す気配がない。
自分の家のキッチンの蛇口を捻り水が出てきたら、そこへコップをかざせばコップ内に水が満たされることを疑う人は殆どいないだろう。
同じように、水桶の中に水が注がれ続ければ水嵩が増してゆき溢れ出すのが当たり前なのだが、「永久機械」はそうはならない。
現実だのにだ。
永久機械は我々に、「現実を推し測るときの物差し」自体を疑わせる。
超現実(シュルレエル)を直截的に現すのではなく、「何となくの現実」(レエル)を疑わせることで、超現実(シュルレエル)を示唆している作品とは言えないだろうか。

しかし、マンタムの作品は「オブジェ」ではない。
オブジェであることはシュルレアリスムを示すことにおいて重要なことである。
なぜ重要か。
シュルレアリスムは文学から始まった。
アンドレ・ブルトンは自動記述のスピードを上げていく実験によりレエル(現実)の中にシュルレエル(超現実)を発現させた。
自動記述とは、予め書く内容を決めておくことはせず、筆がすべるままにまかせて文を書いてゆくと言うもので、書く速さが常軌を逸した段階へ達したとき、シュルレエルは完全に姿を見せた。
そのシュルレエルは「オブジェ」(客体)の世界だった。
オブジェの世界とはどんなものか。
ここに、高速の自動記述で書かれた文の一つを引用する
「シュザンヌの硬い茎、無用さ、とくにオマール海老の教会つきの風の木の村」
主語も動詞もなく、ばらばらに出てきた言葉が簡単な前置詞で繋がっている。「モノ」が脈絡なく繋がっているだけの世界。

オブジェとは「客体」のことである。
客体とは、我々の認識の対象となる「モノ」。
我々の意識とは関係なく独立して存在するものである。
主観的意思の排除された客体だけで構成された世界は客観の世界と言える。

美術のシュルレアリスムはそれを現すのにどう言う手段で挑んだか。
それは、「デペイズマン」と呼ばれる手法である。

デペイズマンとは「国(ペイ「故郷」)を追放(デ「分離」)すること」である。
事物を本来あるべき場所ではない別のところに配置することにより、「本来ある場所」と言う主観的価値から切り離し、オブジェ(客体)化させた。
マックス・エルンストのはじめたコラージュやルネ・マグリットの絵画が代表と言える。

しかし、マンタムの作品は、関連性のない二項が思いがけない結びつきをしているように見えて、そこには物語により必然(関連)性がもたらされている。よってオブジェではない。

だが、作品は「物語との関連性」だけで構成されているのだろうか。
永久機械と同じく、現在Sipkaに常設されている「オリンピア」はどうだろう。

オリンピアの物語を読むと、例えば、オリンピアの下半身が、伽藍堂で中に鳥が詰め込まれていることには必然性がある。
だがオリンピアの上半身は、物語によると「再生“人間”の骨格」で「動物の骨」であることには違和感がある。つまり、必然性がない。
ならば、それは「装飾」的なことであろうか。そうではないだろう。
これはデペイズマンだろう。

一つの作品の内に、「主語」を持った物語に必要付けられた部分とデペイズマンによって客体化されている部分が存在する。

シジェ(主体)とオブジェ(客体)が同居していて、レエルとシュルレエルの連続性を見出だすことが出来る。

そして、マンタムの書く物語だが、ただの空想(ファンタジー)だろうか。

マンタムの作品で、物語が書籍化された「鳥の王」は、2011年の東日本大震災の津波の被害や原発事故による放射性物質の拡散を受けて、マンタムが造り上げた(書き上げた)作品だ。
現実との関わりから生まれた、現実に対する確信とも呼べる「予感」に立脚して書かれている。
ただの空想物語ならば、レエル(現実)との関わりを持たず、悲痛な現実からの「逃げ場」として機能させるだろう。
だが、そうではない。
マンタムが書いたのは空想物語ではない。
つまり、物語においてもレエルとの連続性を持っている。

マンタムのシュルレアリスムは、オブジェとしてだけあるシュルレアリスムより、よりレエルとシュルレエルの連続性を顕著に示しているシュルレアリスムなのかも知れない。

参考書籍「シュルレアリスムとは何か」巖谷國士
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