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2014-03-17(Mon)

文芸創作会空剥文芸イベント『 』vol.2で話したこと、話したかったこと。

今回リレーショナルアートと言うのをやらせて頂きました。
リレーショナルアートの「リレーショナル」と言うのは「関係性」と言う意味で、ニコラ・ブリオーと言う人が90年代後半に「関係性の美学」と言うのを提唱したのですけど、文学の世界にもあると思いますが、文学に関係あるものだと「ロラン・バルトの作者の死」とかでしょうか?
ああいう批評基準みたいなものです。
「作者の死」は、作者と作品は切り離して批評するべきだと言ってます。作者の自分語りや逸話を作品批評の根拠にすると帰属錯誤な批評にしかならない、と、当たり前なんですが言って(書いてある)ることが明確なんです。
けれど、「関係性の美学」はブリオーが当時、雑誌で連載をしていたものをまとめたものと言うこともあるのかも知れないですが、どちらかと言うと内容が漠然としているとこがあるらしくて、「あるらしくて」と言うのは実は恥ずかしながら僕はまだ読んだことないんです。
で、定義がアバウトだから解釈幅が広くて色んな解釈ができてしまう。色んな解釈ができてしまうから引用しやすくて、無数の作家が引用して美術界に一気に広まった。そうやって広まって90年代後半からの美術を席巻したものと言えます。
特に日本では「関係性」と言うキーワードが独り歩きした様なところがあって。
それは何でかと言うと、「関係性の美学」は日本語訳が出るのが遅かったんです。
90年代に後半のものが2011年にやっと翻訳されて出た。
これは日本でどれだけアート(ここで言うアートは西洋美術のことですが)が一般的に関心を持たれていないかがわかるエピソードなんですけど。
後、ドイツ哲学を始めとする、ヨーロッパの哲学はイギリスやアメリカの哲学と比較すると、言い回しが難解で、「深遠なる哲学」なんて言われていたりして…ブリオーはフランスなんですが、そう言う癖の強い文章を書くみたいでして、そう言うこともあって、日本語訳が出るのが遅かった日本ではなかなか理解するのが難しくて「関係性」と言うキーワードだけが独り歩きした。
この「関係性」と言うのが日本の美術にどれだけ影響したか。アートをちょくちょく見に行く人だったり、 作家活動している人はわかると思うんですが。ワークショプとか、体験型アート、参加型アート、あと地域活性化を錦のみはたに上げてるのコミュニティ・アート、そう言うのの理論的な後ろ盾として引用されてきたんです。「関係性」は。
いま言ったものは90年代後半から盛んになった。
あと盛んになったことが一番顕著なのが「インスタレーション」。
これは、作品と言うか、モノと場所や状況との関係性を築く作品。
インスタレーションの氾濫でわかると思います、「関係性の美学」と言うか「関係性」の日本への影響がどれだけあったか。

で、ブリオーは結局「関係性の美学」で何を言ってたのか、ここから引用なんですが、引用と言うか引用の引用なので孫引きなんですが、ブリオーは、アートの60年代における実践と90年代以降の実践とのもっとも大きな違いとしては、制度批判の根底にはユートピア的な世界への憧憬があったということ挙げました、で、ブリオーはそうした理想を否定し、むしろ「いま、ここ」にいる私たちが、よりよく生きるための方法を模索する方向へと転換した、より幸せな明日を信じるよりも、いま 目の前にいる隣人たちとのあり得る関係を開発することが求められている、と述べた。リレー ショナル・アートの作品において仲間ができて、いろんな人となかよくなれる。互いに互いを許容する、まさに民主主義的な場であるというのが、ブリオーの主張なんです。
作品の評価を、そこで表現され、 創出され、影響される人間相互の関係性に依拠すると言うものです。

で、今回、僕がこの作品で何をしたかったのかと言うと。
このイベントに合わせて刷られた冊子(空剥)、この中に僕は「恋愛論」を書かさせてもらっているのですが、その恋愛論に沿って作品を展開していきたいなと思いました。

その恋愛論の中で、恋愛とは「絶対的他者」との出会いからから始まると書きました、絶対的他者とは自分の想像の範疇にはないもので、それはこの僕が書いたもののなかでは「想い」なのです、自分の想い。
誰かへの想いが自分の想像を越えてやってきたとき、そのような情動を起こさせる他者との出会いが恋愛の始まりだって、書きました。
で、今回、張り出されたモノを見たとき、そのなかに自分では思い付かなかった恋愛論が見つかったかもしれない。
張り出された誰かの恋愛論に他者性を見いだしてもらえるかもしれない。
そう言う状況をつくりたかったのです。

で、気に入ったのを持っていってもらったのは、誰かに持っていかれていて、自分にとっての他者と出会えなかったかもしれない。
それも恋愛のアレゴリーになるんじゃないのかなと思ったのです。

で、さっき言ったブリオーの関係性の美学の主張に対して、クレア・ビショップって言う人が批判してるんですけど。
またここから孫引きです。
ほんとうに民主的な場っていうのは、衝突や軋轢もすべて含みこんでこそ成立するはずだと。
その論拠となるのが敵対性(エルネスト・ラクラウとシャンタル・ムフに よって用いられた政治哲学の概念)という概念で、それは不安定な主体が、異質なもの(私ではないもの)との衝突を通して自己同一性を更新していく、というもの。
他者って言うのはこう言う面も備えてる。
衝突もしうると。
張り出された恋愛論のなかにはそう言うものもあったかも知れない。

更に、僕がいま話した作品の意図、思惑を越えて、この作品を実行する上で、僕の中の予定調和を越た何かがたち現れるかも知れない。それは僕にとっての絶対的他者だなと。
更に、この「文芸」イベントにとって美術の作品が他者になれたらな、とか。
この作品は、参加してくれた方が作品を作ってるとも言える、受け手がつまり作家の立場にもなる。
そう言うのは作品の関係性の上で成り立つ、恋愛論を書いて頂いた紙を持ち込んだパネル等ではなく、会場の壁に直接張り付けたことと言うのは場所との関係性を積極的に取り入れるため、だとか。
今、色々いいましたが、作品と言うのはこう言ったように、色んな要素が絡み合ってると思います。
それはアートに限らず、どんな作品もです。
最初の方で話させてもらった、ロラン・バルトの作者の死で、バルトは作品は作者の自分語りに収まるような単純なモノじゃない、数々の影響や引用、無数の経験が織物のように編み込まれてできた複雑なものだと。
だから、作者の意図を正確に汲み取ることだけが批評なんじゃないと言いました。

引用部分の出典先
http://ryoheiito.tumblr.com/post/28623344056
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