--------(--)

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

2014-10-04(Sat)

いろいろ

■「自分のことを理解してほしい」と言う欲求は、いつからあったかは忘れたけど、永いこと自分にもあったが、いつの間にか消えていた。
消えたのか、自覚できないほどに矮小化したのか。
年齢のせいなのか、それとも理解してもらう「自分」と言うものが、自分にとっても(とってこそ)不明瞭なモノだから理解されたかどうかの判別なんてつかないなんて思ってるのだろうか。
「自分のことはわかってる」と言う意識は、まさに把握不能の領域(無意識)の仕業に過ぎない。
実際、自分の思い描く「自分像」が或経験によって脆く崩れ去り、裏切られると言うことは多数の人が経験済みだと思う。
しかしそう言う経験はだいたい、「人間てこう言うもんだよな」等と、みつを方面へ回収されてしまう。
自己の把握に「人間」なんて大きな網を持ち出したら引っ掛からない訳がない。そんな巨大な単位を使う以前に、自分のことを把握可能と言う前提の方を疑う方が自然だのにだ。

■もし芸術観が一様なら「私でない誰かがやる(やれる)事」はそれで「食っていける人」しかやらないだろう。にも拘わらず、それだけでは食っていけず貧乏してまで作家している人が多くいるのは、芸術観が多様で作家によってバラバラだと言えて、その自分の芸術観を信じ制作しているからだのと思う。
で、その多様さがアートを活性させてるのだとも思っているから、芸術のマイナー性に焦燥して、他人の芸術観をただ罵倒して去勢しようとするのはアート全体のマイナスなだけな気がするのだけど。
目的が明らかでないものに対しての合目的性の有無は果してどうやって明らかになるんだろう。
作家が他の作家に対して「センスないよ」と言ったところで、そのセンス(合目的性)は「センスないよ」と発言した方が一方的に設定した目的に対する合目的性(センス)になる。
センスの有無は目的の共有が前提。
自分の目指すゴールと、他の人の目指すゴールは別なのに、皆が自分のゴールを目指していると言う思い込み。

■ その事件の当事者ではなくても、その事件を聞いた段階で「その事件を聞いて不快な感情が起こった当事者」になってしまいますから、「同じ様な事件が起こらないようにする」と言う問題より、「その事件に対する感情の解消をどうするか」と言う問題が先立って、その解消の方法として攻撃性を解放する(加害者を叩く)を選択してしまう例が多いのだと思います。
二次災害みたいなもんだと。
かと言って、報道しないわけにはいかないので、二次災害を常に乗り越えなければいけないのだと‥

■体が成熟するころ(思春期も終わる頃)の「無知ゆえの達観」を挫いてくれる役割の他者が傍に居ることは幸福だと思う。
ニヒリズムや狭隘な世界観の合理主義に陥ってるところに自分の無知を暴いて鼻っ面に突き付けられるのは運がいい。

■恋愛に依存するのも、恋愛を拒絶しているのも同じようなものだと思う。
「拒絶」は依存の怖さを知っていて恐れている状態で、つまり「依存」が前提にあってそれの裏返し。恋愛拒絶は「恋愛依存の潜在態」と言えると思う。

■個人的な合理性しかないなら、それに合わせて「頭のよさ(合理)/頭の悪さ(不合理)」がモデリングされているんだろう。
個人が個人(自分)の合理性に従って生きてるのを顕著に表す言葉は「バカばっか」だと思う。
他人が自分の合理性にそぐわない生き方をし(違う文脈で生き)ているのは当然なので、自分の合理性を普遍視したら「バカばっか」になるのは当然。

普遍的な「頭のよさ(頭のいい人像)」なんてなくて、みんなそれぞれ、「自分に理解できることを言ってくれる人」(頭のいい人像)とか、「自分の長所の延長にあるモノ」(頭のよさ)とか、自分の都合で「頭のよさ(頭のいい人像)」をモデリングしてる。

■ネット上に「死にたい」等と書き込むことに対して少なくとも表立って不快感を示すことのなかった「辛くても表に出さないタイプ」の人が、「あいつは苦しんでるけどお前は気楽でいいな」と言う外貌主義との接触をきっかけに「死にたい」に対して表立って批判的になることはもしかしたらあるんじゃないか。
だから実は、「死にたい」に気づかいを見せてる人が、「死にたい」に批判的な人を生産しているかも知れない。

■作者が作品への影響を語る(または暴かれる)と、観手(消費者)が、影響関係だけで、その作品をわかったつもりになって「なんだ、真似かよ」と見切りをつけてしまう態度が、作者の影響の隠蔽に繋がっていることもある。
もちろんそれは隠蔽を正当化できる理由にはならないけれど。
影響関係を明らかにすれば「なんだ、真似かよ」と見切りをつけられてしまう中で、影響関係を隠蔽するのは合理的と言えば合理的と言える。
合理性と「正当/不当」は関係ないけど。

■子供の頃、親に買ってもらった恐竜図鑑に、節足動物が巨大だった時代の、たぶん海底(水が再現されていなかったので当時は陸上だと思い込んでいたけど)の再現模型のモノクロ写真が載っていて、見馴れない巨大な節足動物と見馴れない植物(やイソギンチャクみたいなもの)が入り乱れてたその白黒の写真は見てると不安になった。
本編の恐竜のことは殆んど覚えてないけど、それは強烈に記憶に残っている。
引っ掻き傷的なモノの方が記憶に残っている。
当時は多分、模型とすら思ってなかった。
過去に実際、誰かが実物を撮ったモノだと思ってたと思う。
恐竜の方が絵と化石の写真で、「恐竜の不在」を顕著にしていて、それが節足動物の模型の白黒写真にリアルさを与えていたのかも。

■人って、解らないモノに対して「結論を急がず保留にしておく」をするのに気持ち悪さを感じる様に出来てるような気がする。
進化の歴史で見たら「目の前の事を保留にしておける『余裕』」なんて手に入れたのは最近なんだと思う。
だから、早合点したくない場合、反射的な決定から、撤回、保留、と言う流れで、保留に持ち込むのがよいと思うのだけど、最初の印象を払拭(して保留に)するのも同じくらい困難なことなのかな。

■その人にとって耳触りのよい言葉は、往々にして耳触りのよさだけを与えてその場に定点させる。
むしろ、変化しないことの正当性を得られるからこそ心地よい(耳触りがいい)のかも知れない。
それ自体は良いことでも悪いことでもないけど、その効果がその言葉の過大評価に繋がってることはあるんじゃないか。
それがその人の評価軸になってるから当たり前なのかも。

■寺山修司は「想像力より高く飛べる鳥はいない」と言っていたけど、人が自分の想像力と思っているものは往々にして片翼に思える。
ある事を想像するときその死角になる部分は暗部のままで終わることが珍しくない、と。
そこを補完できたものが寺山修司が言うような想像力なんだろうけど。
スポンサーサイト

コメントの投稿

管理者にだけ表示を許可する

コメント

プロフィール

鳥はとびつつ老いてゆくのみ

Author:鳥はとびつつ老いてゆくのみ
かく撃ち抜かれたる兵士の眼

最近の記事
最近のコメント
最近のトラックバック
月別アーカイブ
カテゴリー
FC2カウンター
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

ブログ内検索
RSSフィード
リンク

FC2Ad

Powered by FC2 Blog

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。