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2015-07-03(Fri)

いろいろ

■自由意志が前提の場合、加害側が犠牲者的に見られることはないから、加害の前段階に犠牲者のレッテルを貼る方法のひとつとして、虐待の定義の拡大、多様化があるのかもしれない。
そうすると、責任が加害者からその親へ横滑りしただけとも言えるけれど‥

■人が事を把握する(振り返った)とき物語を作ってしまうこと自体が、創発的(エラー)な気がするのだけれど、その創発(エラー)は作品と別のところで動いているから、そっちに目が行くと作品を見てないことになるのか。
例えば、「自分は何故この作品を作ったのだろう」と考えると、おおよそそこには「物語」が捏造される訳だけれども、それはその作品とは関係ないもう一つのクリエイティブが発生して、その作品に近づいた気になるけれど、結果的にそこからは遠退くことになるのか。

■価値観の変容と言うのは諸刃の剣だ。自分を苦しめていた足枷の様な価値が壊れてゆき解放されることもあれば、自分が寄る辺としている価値が崩れ去り足場を失うおそれもある。
今現在の自己を固定的なモノと、無意識に前提して、それにあわせて価値を取捨選択していくのだろうか。
逆に、変容する自己を前提にしている場合は何を基準に価値を選択しているのか。
理屈の整合性だろうか。
それにしたってなんらかの価値が先行していないと選べない。
理解できるモノの方に価値があると考える人と、理解できないモノに惹かれる人といるけれど、たぶん前者は足場を失う恐怖が強いか、現行の社会の価値があまり足枷にならないマジョリティーなんだろう。後者は逆。
自分の価値に添った行動をするのか。自分の行動(またはその結果)に添った価値を形成していくのか。
たぶん相互的なんだろうけど。

■「わからない」がネガティブに用いられるのは、「全てのことはわかるようになるもの」を前提している不遜さからきている。

■かつて、西洋は非西洋を理解する為のモデルとして、進化論を文化に応用させ、西洋を進化の先端に据えて非西洋をその進化の途中のモノとするモデルを選んだ。
未だにその弊害は散在していると思う。

■権力的なフレーム(価値観)に去勢された人が、そのフレーム(価値観)を用いて別の誰かを去勢しようとする。

■自分が属する文化や生活様式に合わせて自分自身がモデリングされてるいると言う感覚が抜け落ちていて、普遍的なモデル(人間像)を錯覚し、更にそれに自分(達)を投影する。そんな目差しからは「あらゆる他者より本質的に(自分[達]が)優れている」と言う選定結果になるのは当然だと思う。
つまり、想像力のなさから来る前提の誤謬。
自分が文化を選んだのではなく、自分が文化に選ばれた(たまたまそこに生まれた)と言うモデルを想像した方が的確な気がする。
何でも自分が選択していると思いたいと言うところがあるのかも。

■「あの人は何がしたいの?」と言う目的の不明さのなかには、目的と手段をとらえ違うと言う誤謬があると思う。
「あの行為はどんな目的のためのモノ(手段)か」と限定的に考えると、「その(あの)行為」自体がその人にとって目的である場合に、何も見えてこない。
その場合、多分そこには「私にとってあの行為は目的になりえない」と言う他者概念の希薄さか、自己肥大による他者性への不感症を起こしているんじゃないか。

■虚しさを「心にぽっかり穴があく」と表現することがあるけれど、あれは場面場面で穴が空く訳ではなくて、常態として穴は空いているのだけれども、日常的にはそのことを忘れていて、何かをきっかけに穴が空いていることを思い出す、それを「虚しい」と言うような気がする。
そんな気がするのは僕が「虚しさ」を贔屓しているからだろうけれど。
贔屓しているからこそ、安易なニヒリズムは好きではない。

■「一発ヤレただけで儲けモノ」と男が下品に振る舞ったもののなかには、女が自分を傷付ける道具として己が利用されたことに気づいていて、そのことから目をそらすための、そんな粗暴さを装った弱さも転がっているんじゃないか。
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