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2016-07-13(Wed)

いろいろ

■一人一人がよく考える様になれば社会がよくなるみたいなのは多分都市伝説で、「考えることは大切」と言っても、「その事について深く考える」ことが思い込み(偏り)をより強くさせることなんていくらでもあって、口出ししても人の思慮の仕方の質を変えることは困難、と言う嫌なことが頭を過った。
考える様になればよくなる、の前提には「考えれば私と同じ様な結論に至る」が、無意識に据えられてるのかな。何も考えないで生きてる人なんていなくて、誰かが考えた結論の「気に入らなさ」を「考えていない」と隠喩してしまっているのかもしれないな。
だから「あなたは何も考えてない」という批判は的外れで相手の考え方を変化させるのには適した言葉ではなく、ただのマウンティングだ。

■自分を大切にしてくれる人や、尊敬する人がいて、更にその人と足場になる価値を共有していたとして、その価値を疑うことがどんなに困難か想像してみたら、高々難易度な見積もりになった。
だから、自分が疑えていないものの見積もりの方はかなり甘いものだと思うことにした。

■世の中には、他人の創作に〇〇だから「価値がない」「無意味」「向いてない」「やめたほうがいい」、と口出しする人がまあまあいるけれど、その創作が少なくとも自分一人を救っているなら意味があるし価値があるし向いてるからやめるべきではない、と言うのが僕の意見。
しかし、その創作者がそれを仕事にすることを目的にしていることを共有している場合「向いてない」と無闇に言っている訳ではないことも当然ある。
創作する人は自分がそれをやる理由を安易に「これで食っていくため」と狭隘化させてしまうのも避けるべきだと思う。
趣味/仕事の二分法を疑い無しに受け入れている人が多い様に思える。
自分を救っているのならそれは「趣味」(やってもやらなくてもいいもの)の領域よりも生き方の問題に寄ってくる。なので、生きる手段の仕事と同等に語るべきのことなのかも知れないと言うことを考えてもいいんじゃないか、と。
■理性的であることが感情的であることより優位とされる社会では、優位への希求が感情的な所作を自分自身に対しても理性的なものと判断するように偽装して認識されている気がする。だからややこしいことになるのだと思う。
意識は常に騙されている。
その騙されている意識を根拠に様々な振る舞いをするのだから人と言うのはなんとも‥
「理性は感情より上等なもの」と言う価値が先行してそれを追うように「感情より理性が優位に働いている」と思い込むようになったのか、それ以前からそうだったのか。
多分、それ以前は理性も感情も未分だったんだろう。
つまり、先に何か設定が先行していて、それに添って物事を認識することは自分自身のことに関してもそれ以外に関してもありふていることなんだろうな。

■「それが普通でしょ」と、「普通」と言うことで「それ」に正当性を付与することができるかのような効力を錯覚している物言いがあるけれど、歴史のなかで数々の差別等の不当なことが「普通」によってなされてきたことを考えてもまだ「普通」であるこを根拠にして正当性を得れると思うだろうか。

■自分が気に入らないこととそれが間違ってることは別のことと理解しつつも、その二つに正の相関があると言う思い込みはそう簡単に拭いきれるものではないと留意しておいた方がいいのは、理解していることと、ついついやってしまうこともまた別のことだから。

■「男らしい/女らしい」が修辞として機能する割合は世代が低くなるほどやはり減るのだろうか。
自分が好意を持つ相手が肯定的な文脈で「男らしい」を自分に対して使ったなら嬉しいが、それは「男らしい」と言われることが嬉しいのではなくて肯定感が嬉しいのだけど、そんなきっかけからそれ以降「男らしい」を希求することになる人とかもいても不思議じゃない。

■他人の辛さを軽く扱うことが、自分の辛さを軽く扱われることと地続きであることを想像できない人がいるけれど、それは自分を特別と思うことが生存に有利だったからなんだろうか。

■一般的に短所と言われるものがその人に利益をもたらしたり、逆に長所と呼ばれるものが不利益をもたらすことなんていくらでもあると思うし、また同じ性質でも利益を生んだときには長所認定して、逆だとネガティブな呼び方に変えるような結果論的なところはあると思う。

■知性を真理につながる道具のようにイメージして、たった一つの本当の知性みたいのを想像している印象を受ける人もいるけれど、真理なんてどうやったって解りっこないんだから知性が多様化するのは当然の気もする。

■レッテルは他人を貶めるための道具ではなく、他人を単純化する道具だから、優越感を抱く側から劣等感を抱く側へレッテルを貼るだけでなく、逆のベクトルでも行われている。
人はたぶん自分への不利益に意識がいきやすいので優越側からのレッテルに目敏くなるのかと。他人の貼ったレッテルを真に受けるかどうかは、自意識とそのレッテルが一致するかどうかで、それが負のレッテルの場合辛いのだろう。その自意識が自体が常に他人との影響関係にあるだろうからややこしいのだけれど。

■色んなことに無自覚でいるのは日常を送るための能力だろうな。あることを自覚してしまうゆえに日常に支障をきたしている例は沢山ある訳だし。
「自覚する能力のなさ」が「日常を送る能力」として機能したり「日常を送る能力のなさ」が実は「何かを自覚する能力」から来ていたり、手持ちのフレームで「能力がある/ない」と選別するけど、能力がトレードオフだったり、ゼロサムゲームの形であることをイメージしないと見過ごすものは多い気がする。

■性格が悪いと孤立するって思っている人は多いと思うけれど、性格の悪い人が孤立してるのってあんまりみたことなくて、どちらかと言えば気の弱い(性格がいいとも言える)人の方が孤立している印象がある。
全くそんなことないのに、優しい人が「私(僕)は性格悪いから」と見当外れなこと言い出すことがあるのは、「性格が悪いと孤立する」を前提に自分が孤立している状況から演繹したのではないかなあと思ったりする。
性格が悪くても孤立することがないのは、性格の悪さがアドバンテージとして機能する部分があって、それに利益を眼差す人がいるからだろうか。
性格のいい/悪いなんてまた曖昧な話だけれども。

■アートに関わりながらわざわざ優劣のことを口にする人は、最初から何かに対して優位になるための道具としてアートを使おうとして関わり始めたか、そうではなかったのにそう言う人の挑発にのって安易に同じ土俵に上がってしまったか。
「アートは認識を変えるものだ」と言いつつ、自分をとらえてくる「優劣」のような慣習的な感覚からまず抜け出せてない物言いは少なくない。
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