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2015-10-22(Thu)

いろいろ

■他人の理解できないことを「非常識」と言う単純なモノに落とし込むのは、常識/非常識と言う曖昧な(自分でモデリングできてしまう)ものを持ち出して、他人の解らなさ(他人との違い)を、自分との間にある闇ととらえ、それを見えないようにパーテーションするためなのじゃないかって思えてきた。
だから、常識/非常識をよく口にする人ほどその都度線引きし直しているように見えるのではないか、と。
他人とのどうしょうもない違いをニヒリズムの根拠としてしまうか、世界の豊穣さを見るか、この世の基本が掴み所ないと息苦しく目眩を起こしてしまうのでそこに蓋をするのか、掴み所のないものだからこそ息が詰まらずにいれるのか。

■「男らしさ」の条件に「他人に男らしさを要求しない」と言うのを追加した方がいいと思うし、実際ぼくのなかで、他人に男らしさを要求してるのを見てその人に男らしさポイントが減点されたことはあれども加点されたことはない。
男らしさと言う言葉が好きではないが、強いてイメージを上げると「自分の信条を粛々とに実践している人」で、それを口に出したとたんに(ましてや他人に押し付けたとたんに)「男らしさ」ではなく悪印象の「マッチョ」の方になる。
他人にそれを要求したら、それを享受する方にまわるので、それから遠退くことにると思うのだけど。
そして、男らしい外貌を振る舞ってもいざというときに期待されるものを発揮するかは別の話。
「男らしい」が好きでないのは賛辞する言葉に特定の性を用いるのがバカっぽいから、と言うシンプルなもの。

■「悪人がいくら害悪を及ぼすからといっても、善人の及ぼす害悪に勝る害悪はない」とニーチェが言ったらしいけど、この世の悪いことの大半が善意によって起こってるなら、悪人を滅すると言うモデルの正義だけでは悪いことの大半がなくならなくて、目先の善悪にとらわれず、どんな形だろうと結果として悪いことが起こらないと言うモデルのシステムを築く正義も、両方バランスよく必要だろうけど、正義とは他の正義と相容れないところがあるから、悪人を滅する正義が、滅さない別のモデルを認めずに悪人を滅すると言うものに偏重している気がする。

■好き嫌いの判断を別の判断に横滑りさせているものは氾濫している。
例えば、好きなものを本物といい、気に入らないモノを偽物とする、等。
更に好き嫌いが自分のしてきたこと(選択、その結果)に合わせてモデリングされている場合も多いだろうから回り回って自己肯定していることになる。
人は無意識に負荷を緩和させることを常に実践している。
意識に上がってきたものは自分を救い終えた痕跡(、残滓)と言う側面が強い気がする。

■一つの制作のなかで、ミメーシス(先行するイメージを再現するもの)と、シミュラークル(制作そのものが表現されるものを生成するもの)は、混ざりあっていて分け難いと思う。再現であってもそこに創発的にシミュラークルが生まれるだろうし。
エスキースとタブローを見比べたとき、歓迎された創発と、修正されるべきものと見做されたエラーから、その作家の選考基準がぼんやりと浮かび上がってくる。
それは、「どんな答を出すかより、どんな問いをするかによってその人の人となりが見えてくる」と言う類いのものと似ているのかも。

■「神話や、お伽噺が結局のところ何が言いたいかわからない」と言うのと「アートはわからない」と言うのは似ているのかも。
そこには現行の価値からの眼差しの外部は欠落しているという発想がなく、「この眼差しが全てだ」と言うもの。
欠落とは常に満たされているもののなかにあるのかも。

■書道のように文字が観る対象になる文化が成立するのは、漢字が表意文字であることや、漢字の成り立ちの多くが象形文字であったりするからだろうか。
表意文字文化圏では大脳右半球や視覚野が特異に活性化しているらしいけれど、それは表意文字文化では非言語的知性に傾向しやすく、表音文字文化は言語的知性に傾向しやすいと言うことかな。
日本で顔文字や絵文字が盛んになったのも、表意文字文化だからだろうか。

■自分のやってることに誇りを持つことと、自分が属してると思っているもの以外を貶めることが同じことだと信じている人がいる。

■よくあるアンケートで、好きな異性や、嫌いな異性の条件みたいなのは、たぶん過去の恋愛のパートナー選びの反省点で、実際は条件なんかで好きになってなくて、寧ろ過去の付き合ったタイプの傾向がでてて、皮肉にも嫌いな条件(反省点)を持ってる方に惹かれる可能性の方が高いのじゃないかなって思った。

■「無意識」は合理主義にとって受け入れ難いものなんだろう。無意識を前提にすれば合理性が演繹できないないのだから。合理性は常に限定合理性なんだと思うのだけど。

2015-07-03(Fri)

いろいろ

■自由意志が前提の場合、加害側が犠牲者的に見られることはないから、加害の前段階に犠牲者のレッテルを貼る方法のひとつとして、虐待の定義の拡大、多様化があるのかもしれない。
そうすると、責任が加害者からその親へ横滑りしただけとも言えるけれど‥

■人が事を把握する(振り返った)とき物語を作ってしまうこと自体が、創発的(エラー)な気がするのだけれど、その創発(エラー)は作品と別のところで動いているから、そっちに目が行くと作品を見てないことになるのか。
例えば、「自分は何故この作品を作ったのだろう」と考えると、おおよそそこには「物語」が捏造される訳だけれども、それはその作品とは関係ないもう一つのクリエイティブが発生して、その作品に近づいた気になるけれど、結果的にそこからは遠退くことになるのか。

■価値観の変容と言うのは諸刃の剣だ。自分を苦しめていた足枷の様な価値が壊れてゆき解放されることもあれば、自分が寄る辺としている価値が崩れ去り足場を失うおそれもある。
今現在の自己を固定的なモノと、無意識に前提して、それにあわせて価値を取捨選択していくのだろうか。
逆に、変容する自己を前提にしている場合は何を基準に価値を選択しているのか。
理屈の整合性だろうか。
それにしたってなんらかの価値が先行していないと選べない。
理解できるモノの方に価値があると考える人と、理解できないモノに惹かれる人といるけれど、たぶん前者は足場を失う恐怖が強いか、現行の社会の価値があまり足枷にならないマジョリティーなんだろう。後者は逆。
自分の価値に添った行動をするのか。自分の行動(またはその結果)に添った価値を形成していくのか。
たぶん相互的なんだろうけど。

■「わからない」がネガティブに用いられるのは、「全てのことはわかるようになるもの」を前提している不遜さからきている。

■かつて、西洋は非西洋を理解する為のモデルとして、進化論を文化に応用させ、西洋を進化の先端に据えて非西洋をその進化の途中のモノとするモデルを選んだ。
未だにその弊害は散在していると思う。

■権力的なフレーム(価値観)に去勢された人が、そのフレーム(価値観)を用いて別の誰かを去勢しようとする。

■自分が属する文化や生活様式に合わせて自分自身がモデリングされてるいると言う感覚が抜け落ちていて、普遍的なモデル(人間像)を錯覚し、更にそれに自分(達)を投影する。そんな目差しからは「あらゆる他者より本質的に(自分[達]が)優れている」と言う選定結果になるのは当然だと思う。
つまり、想像力のなさから来る前提の誤謬。
自分が文化を選んだのではなく、自分が文化に選ばれた(たまたまそこに生まれた)と言うモデルを想像した方が的確な気がする。
何でも自分が選択していると思いたいと言うところがあるのかも。

■「あの人は何がしたいの?」と言う目的の不明さのなかには、目的と手段をとらえ違うと言う誤謬があると思う。
「あの行為はどんな目的のためのモノ(手段)か」と限定的に考えると、「その(あの)行為」自体がその人にとって目的である場合に、何も見えてこない。
その場合、多分そこには「私にとってあの行為は目的になりえない」と言う他者概念の希薄さか、自己肥大による他者性への不感症を起こしているんじゃないか。

■虚しさを「心にぽっかり穴があく」と表現することがあるけれど、あれは場面場面で穴が空く訳ではなくて、常態として穴は空いているのだけれども、日常的にはそのことを忘れていて、何かをきっかけに穴が空いていることを思い出す、それを「虚しい」と言うような気がする。
そんな気がするのは僕が「虚しさ」を贔屓しているからだろうけれど。
贔屓しているからこそ、安易なニヒリズムは好きではない。

■「一発ヤレただけで儲けモノ」と男が下品に振る舞ったもののなかには、女が自分を傷付ける道具として己が利用されたことに気づいていて、そのことから目をそらすための、そんな粗暴さを装った弱さも転がっているんじゃないか。

2015-05-19(Tue)

いろいろ

■自分の自分に対するイメージに閉じて、自己を変容させまいとするのは、今までの連続性(積み重ね)をふいにしまいと言う一種の合理性みたいなモノか(実際に「ふい」になるか、とは別に)、自己が行動を選択してくと言うモデルではなくて、イメージに沿わせて行動をモデリングしていく、イメージ経由の自己同一性のようなモノか、いずれにせよそう言った表層的な同一性を保つの(一様な自己の現出)は自縛の類でしかできないのかも。
表面的な同一性を何処かで要求されているのか、またはそう言う錯覚をしているのか。

■何かに対する寛容/不寛容が、全てその人物の度量の様に語られることがあるけれども、実は刷り込まれた価値の多い少ないの話であるのかもしれない。
それと、既存の価値を読み直す術を得る機会の有無。

■いぶかしい言説より、もっともらしい言説の方が、その「もっともらしさ」によって精査されることを棚上げされ続けている可能性がある。
そして、その無精査なもっともらしさを、いぶかしさをふるいにかける時の根拠にしまっている盲目さはある。
つまり、二重にもっともらしさが有利、だから、もっともらしさが大手を振り続ける。

■「経験」は常に「たった一人の『私』」の経験でしかないのに、人がそれに基づいて行動してしまうのは、個人的経験(たった一人の私の偏った経験)に基づいて偏った行動することで、局所的な偏り(狭い世界、縄張りの中?)に適応して生存率を上げている部分もあるのかも。
だけど、今は生きる範囲が大きく広くなって「偏り」が生存(共存)の邪魔(わだかまりの原因)になってるのか、って思った。
しかし、赤ん坊は言葉で知識を得ることはできない。経験的に育つしかない。
服が体毛の機能の外部化であるように、経験は最初(赤ん坊の頃)から外部化(知識化)している訳にはいかない。
どこかの段階で外部化へ移行すると言うのがいいのだけど、その移行を失敗する。
後、経験的な行動を有効なものにするために敢えて世界を狭くする(無自覚に?)と言う方法をとってしまっていることもあると思う。

■「人は自説を証明するために己が不幸になることをいとわない」のような内容のことを内田樹が言ってた気がするけれど、それがほんとなら「自説が証明されればそのことで誰かが不幸になっていても喜ぶ」なんて言うことはざらにあってもおかしくないって話にもなると思う。

■例えば「なんで、冷静になれないの?」と言う問いの前提に「私はできるのに(そうなのに)」と言うものがあったとしたら、それは「なんで、冷静にいられるの?(私はそうなのに)」と言う問いと等価な筈なのに立場が問いそのものの優劣に反映する。
他に立場的な非対称性がそのまま投影されるモノと言えば「コミュニケーション能力」があると思う。
「コミュ力」を、辞書的な意味を積み重ねて、伝達の確実性を担保していく能力と言うモノとしている話はよく聞くけれど、そんなのは真っ赤な嘘だと思う。
立場の強い者の用件は言葉足らずでも、立場の弱い者の「文脈」や「空気」を読み取る能力の問題にされるし、逆に立場の弱い者から立場の強い者への発信はそれが理解されなかったとしても、立場の強い者の「文脈」や「空気」を読む能力の欠如にはならず、弱い立場の「伝える能力のなさ」にされてしまうことは多いと思う。
概して先に生まれている人の方が立場が強い、だから「最近の若者(または、「〇〇世代」)はコミュニケーション能力がない」と言う構図になるんじゃないのかな、と疑ってる。

2015-04-08(Wed)

いろいろ

■普段、最も忘れがちなことは、諸々のことを忘れていること自体。忘れていることを忘れている。そのことを覚えておくのは困難だから、せめて何かを判断するときは保留する癖をつけて、保留したものを後に忘れている諸々に参照したい。

■目的を持った者は、目的に沿って物事を、意識的、無意識にか関わらず取捨選択(抽象/捨象)している。無数の目的の網目からこぼれ落ちたものは目的を忘れた場面でしか発見されない。

■「有名にならないと、売れなければ、人に認められなければ作品を作る意味がない」と言う言説が美術に適用されることの違和感の正体は単純に、それらの感覚がまさに、普段日常で優位な慣習的感覚そのもので、一方美術は普段優位ではない非慣習的なモノを浮き立たせるものだから。

■見える事によって触覚は視覚の下位情報(サブ、補填的)だったけれど、視覚情報を遮断することで、触覚をメインの情報収集感覚に引っ張り上げるって面白い。
そして、触覚の伝達は憑依的で、それはイタコの話と関係あるのか。
伝http://t.co/IchcmZmijI


■以前から思ってたけれど、ファション誌のモデルやアダルトな女優の写真の顔の修正やプリクラには、不気味の谷現象http://t.co/iDllsRtOztと同類のモノを感じる。
ロボットやCG(作り物)の方から人間に向かうモノと、人間の方から作り物(プリクラ、修正)に向かうモノ。

■恋愛における経験主義と言うのは、恋愛で辛い思いをしたなら、それ以降、再び辛い思いをしないために、「誰が好きか」ではなくて「誰なら(または、どうすれば)傷つかずにすむか」が相手(または行動)を選ぶ基準になる。
しかし、「辛い思いもするかもしれないことを引き受けること」は必ず恋愛に含まれる。なので、その選択は永遠に先伸ばしされ続ける。
更に本人は、選択の最中(恋愛するつもりでいる)なので、恋愛に不参加であることに無自覚。
無自覚な恋愛拒絶者。

かくあったは、意志の歯ぎしり
http://t.co/QwuoJzFadi

■作家さんで話を聞いていると凄く合理的な考え方の人がたまにいて、「でもそもそもそんな合理性の先には作品(用途のないもの〔少なくとも『分かりやすく』〕)なんて必要としない社会があるんじゃないか?」と言う言葉が出掛ける。
けれど、その人が作家で(作品づくりをしている)あるところ(自分にはわからないところ)に惹かれて言葉を飲み込む。

■寄生獣でもサイレントヒルでも「私(達)は何のために存在しているのか」と言う疑問を持っている非人間のキャラクターの「田宮良子(田村玲子)」と「マリア」が好きだけれども、人間にとっても考えたところで何も手がかりのない疑問のメタファーであるキャラクターだ。
考えても仕方ないのだけれども、何処か諦めきれないモノを引き受け(肩代わりし)てくれている。
これが非人間でなくて、人間だったら肩代わりは不可能なのかな。

■作品(制作)は「表現されたもの(表現すること)」に留まらないから、表現と言う行為と作品(制作)は同等じゃない。表現は制作行為の一部だし、表現されたものは作品の一部。

■自分がその場所で傷付か(けられ)ないことは、他の人がその場所で傷付か(けられ)ないことを保証している訳じゃないのに、自分の安全な場所は他人にも安全な場所だと思い込むことはある。

■ヴィトゲンシュタインの「語りえぬものについては沈黙を」の「沈黙」が制作なのかもしれない。

■他者承認て「他人に認められる」と言うことを根拠にした、「『他者経由』の『自己承認』」だと思うのだけど、違うのかな。
根拠が外部(他者)化されることで「承認『される/されない』」(批評)の精度が担保される、と言うことがあるのだ思うけど、「その『精度』は、ただ『外部化』されるだけで本当に担保されるのか?」と言う疑問が抜けている気がする。
もとより「多数の人に受け入れられる」と言うことがゴールなら問題はないのだけど。
それならば、それを支持してくれる人の数で測れるけれど、それ以外がゴール場合そんなに有効ではないと思う。
批評の中に他者性(自分にはない視点)が現れるのは、多数の人の目に触れる方が確率が上がるし、それをわざわざ告げてくれる親切な人の存在の増える確率も上がる。
しかし、同時に打算的な批評も増える。

■ただ「気に入らない」と言うのは対象のことを知らなくて言えるものだけれど、具体的に批判するには対象のことをちゃんと知らなければできない。
だから「批判」と「気に入らない」はある意味で逆と言えるのかも知れない。
「ただ『気に入らない』と言うだけで、或モノを『嫌い』と表明することは酷い」等と、ただ気に入らないだけで「気に入らない」と表明する事を抑圧すると、「ただ気に入らないモノ」を「嫌い」と言うために「嫌いな理由」を捏造しなければならなくなる。その時、概して「嫌い」であることを正当化する様な方便が生まれる。
そんな錯誤帰属的な「方便」を、第三者が鵜呑みにして、「ただある人があるものをだだ気に入らない」と言うことだけだった事実が、ねじ曲って、「あるもの」の「捏造された『悪いところ』」が伝わってしまうこともある。

2014-12-09(Tue)

いろいろ

■何となくあった「どうとでも言える」に対する違和感の正体は、「どうとでも言える」と発した側が肝心の「どうとでも言える」から免れている様な態度であることが多い気がすることからきていることがわかった。
「どうとでも言える」は相手の言い方も自分の言い方もどんな言い方も等価になる(当てはまる)※筈なのに、自分の言ったものを有効のままに(棚上げして)、一方的に相手の言い方だけを「どうとでも言える」によって無効にしようとしている気配を感じる。
別に「どうとでも言える」に限らず、こんな様な魔法の言葉(都合的に使われる言葉)は世の中に溢れてる訳だけれども。やっかいなのは使ってる本人(自分を含め)が魔法の言葉と自覚せずに、道理が通ってると思いながら使っているところ。

※常に内容が問われるべきで「どうとでも言える」で等価になるとは思っていないけど、百歩譲って等価になるとしたら

■人は救いを求めていても自分が何に救われるかすらわかっていないんじゃないか。「こうなれば私は救われる」と言うものが明確にあったとしても、それは「求める救い」と「願望」が混同されていることがある。「こうなれば」が実現されたとしても、そのとき実際に「救われた」と思えるかは別の話。
そして、考えもしなかったものに救われることもある。
人の意識に上がってきた時点で様々なモノが混同されている、その混同こそ自分を(無意識に)救った痕跡なのかも知れない。

■「他者のことはわからない」と言うこと(前提)から展開されるものがニヒリズム(虚無主義)しかない、と言う「想像力の狭さ」が「コミュニケーション至上主義」の正体なんじゃないか。

■展示観るとき、できたら誰もいないところで観たいと思うことはよくあるけれど、そのために作品を購入するって動機の人もいるんだろうな。

■性欲も、恋愛欲求も、生殖本能の一部なのに、性欲は男女で非対称性が顕著なのに、恋愛欲求は対称な位な気がするけど、男の恋愛欲求は性欲のメタファーだったりするみたいな見誤るカラクリでもあるのか。
そもそも恋愛欲求と性欲に明確な線引きが可能かどうかわからないけれど。

■二項対立と思っているものが、グラデーション的(地続き)な「差」でしかないことはよくあるし、また同じモノの別の側面だったりすることもある。

■日本人にとって西洋人が提示した洋和(亜)折衷がただの不協和音に終わってることが少なくない様に、西洋人にとって、日本人が提示する、和洋折衷がただの不協和音に終わっていることも少なくないんだと思う。と言うより、これはもしかしたら、一方の文化の眼差しから見た成功は、もう一方の文化の目差しからは失敗に見えるものなんじゃないか。

■例えば、僕は「意中の特定個人を射止めることが重要なのであって、その個人以外の不特定多数に好かれることは意味がない」と「モテる」ことに価値を見出してないけれど、それは、まず「自分がモテないこと」が先にあって、その「自分」を救うためにモテることに価値がなくなる(ないように見える)ようロジックを組み立てているのか、僕がモテない事と、そのロジックは独立で、ロジックは(僕の中で)整合性に支えられているのかは分かり様もないことで、続いて僕が、モテることに意味がないと思っているのは、後者のロジックの整合性に依拠したものと思っていても、その意識の当事者の自分がそう思うからと言う根拠は「思い込み」以上のモノではない。
そもそも道理の整合性のあることがそこまで優先されていることなのか(生存的に)が疑わしい。
「私」というモノが意識圏内だけで駆動しているモノならば、例えば「リンゴを取ろう」と思うのにも「『リンゴを取ろう』と思おう」と言う「意図の意図」がなければならないけれど「意図の意図」はない。
それどころか、最初の「リンゴを取ろう」すら思わずにリンゴを手に取ることの方が多いと思う。
視界には本来そこになければならない(黒いなり白いなりなの)「外」がなく切れ目がない様に補完されている。その様に、意識の外も意識は「ある」とか「ない」とかも意識できないように取り繕われている。
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鳥はとびつつ老いてゆくのみ

Author:鳥はとびつつ老いてゆくのみ
かく撃ち抜かれたる兵士の眼

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