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2015-05-19(Tue)

いろいろ

■自分の自分に対するイメージに閉じて、自己を変容させまいとするのは、今までの連続性(積み重ね)をふいにしまいと言う一種の合理性みたいなモノか(実際に「ふい」になるか、とは別に)、自己が行動を選択してくと言うモデルではなくて、イメージに沿わせて行動をモデリングしていく、イメージ経由の自己同一性のようなモノか、いずれにせよそう言った表層的な同一性を保つの(一様な自己の現出)は自縛の類でしかできないのかも。
表面的な同一性を何処かで要求されているのか、またはそう言う錯覚をしているのか。

■何かに対する寛容/不寛容が、全てその人物の度量の様に語られることがあるけれども、実は刷り込まれた価値の多い少ないの話であるのかもしれない。
それと、既存の価値を読み直す術を得る機会の有無。

■いぶかしい言説より、もっともらしい言説の方が、その「もっともらしさ」によって精査されることを棚上げされ続けている可能性がある。
そして、その無精査なもっともらしさを、いぶかしさをふるいにかける時の根拠にしまっている盲目さはある。
つまり、二重にもっともらしさが有利、だから、もっともらしさが大手を振り続ける。

■「経験」は常に「たった一人の『私』」の経験でしかないのに、人がそれに基づいて行動してしまうのは、個人的経験(たった一人の私の偏った経験)に基づいて偏った行動することで、局所的な偏り(狭い世界、縄張りの中?)に適応して生存率を上げている部分もあるのかも。
だけど、今は生きる範囲が大きく広くなって「偏り」が生存(共存)の邪魔(わだかまりの原因)になってるのか、って思った。
しかし、赤ん坊は言葉で知識を得ることはできない。経験的に育つしかない。
服が体毛の機能の外部化であるように、経験は最初(赤ん坊の頃)から外部化(知識化)している訳にはいかない。
どこかの段階で外部化へ移行すると言うのがいいのだけど、その移行を失敗する。
後、経験的な行動を有効なものにするために敢えて世界を狭くする(無自覚に?)と言う方法をとってしまっていることもあると思う。

■「人は自説を証明するために己が不幸になることをいとわない」のような内容のことを内田樹が言ってた気がするけれど、それがほんとなら「自説が証明されればそのことで誰かが不幸になっていても喜ぶ」なんて言うことはざらにあってもおかしくないって話にもなると思う。

■例えば「なんで、冷静になれないの?」と言う問いの前提に「私はできるのに(そうなのに)」と言うものがあったとしたら、それは「なんで、冷静にいられるの?(私はそうなのに)」と言う問いと等価な筈なのに立場が問いそのものの優劣に反映する。
他に立場的な非対称性がそのまま投影されるモノと言えば「コミュニケーション能力」があると思う。
「コミュ力」を、辞書的な意味を積み重ねて、伝達の確実性を担保していく能力と言うモノとしている話はよく聞くけれど、そんなのは真っ赤な嘘だと思う。
立場の強い者の用件は言葉足らずでも、立場の弱い者の「文脈」や「空気」を読み取る能力の問題にされるし、逆に立場の弱い者から立場の強い者への発信はそれが理解されなかったとしても、立場の強い者の「文脈」や「空気」を読む能力の欠如にはならず、弱い立場の「伝える能力のなさ」にされてしまうことは多いと思う。
概して先に生まれている人の方が立場が強い、だから「最近の若者(または、「〇〇世代」)はコミュニケーション能力がない」と言う構図になるんじゃないのかな、と疑ってる。

2015-04-08(Wed)

いろいろ

■普段、最も忘れがちなことは、諸々のことを忘れていること自体。忘れていることを忘れている。そのことを覚えておくのは困難だから、せめて何かを判断するときは保留する癖をつけて、保留したものを後に忘れている諸々に参照したい。

■目的を持った者は、目的に沿って物事を、意識的、無意識にか関わらず取捨選択(抽象/捨象)している。無数の目的の網目からこぼれ落ちたものは目的を忘れた場面でしか発見されない。

■「有名にならないと、売れなければ、人に認められなければ作品を作る意味がない」と言う言説が美術に適用されることの違和感の正体は単純に、それらの感覚がまさに、普段日常で優位な慣習的感覚そのもので、一方美術は普段優位ではない非慣習的なモノを浮き立たせるものだから。

■見える事によって触覚は視覚の下位情報(サブ、補填的)だったけれど、視覚情報を遮断することで、触覚をメインの情報収集感覚に引っ張り上げるって面白い。
そして、触覚の伝達は憑依的で、それはイタコの話と関係あるのか。
伝http://t.co/IchcmZmijI


■以前から思ってたけれど、ファション誌のモデルやアダルトな女優の写真の顔の修正やプリクラには、不気味の谷現象http://t.co/iDllsRtOztと同類のモノを感じる。
ロボットやCG(作り物)の方から人間に向かうモノと、人間の方から作り物(プリクラ、修正)に向かうモノ。

■恋愛における経験主義と言うのは、恋愛で辛い思いをしたなら、それ以降、再び辛い思いをしないために、「誰が好きか」ではなくて「誰なら(または、どうすれば)傷つかずにすむか」が相手(または行動)を選ぶ基準になる。
しかし、「辛い思いもするかもしれないことを引き受けること」は必ず恋愛に含まれる。なので、その選択は永遠に先伸ばしされ続ける。
更に本人は、選択の最中(恋愛するつもりでいる)なので、恋愛に不参加であることに無自覚。
無自覚な恋愛拒絶者。

かくあったは、意志の歯ぎしり
http://t.co/QwuoJzFadi

■作家さんで話を聞いていると凄く合理的な考え方の人がたまにいて、「でもそもそもそんな合理性の先には作品(用途のないもの〔少なくとも『分かりやすく』〕)なんて必要としない社会があるんじゃないか?」と言う言葉が出掛ける。
けれど、その人が作家で(作品づくりをしている)あるところ(自分にはわからないところ)に惹かれて言葉を飲み込む。

■寄生獣でもサイレントヒルでも「私(達)は何のために存在しているのか」と言う疑問を持っている非人間のキャラクターの「田宮良子(田村玲子)」と「マリア」が好きだけれども、人間にとっても考えたところで何も手がかりのない疑問のメタファーであるキャラクターだ。
考えても仕方ないのだけれども、何処か諦めきれないモノを引き受け(肩代わりし)てくれている。
これが非人間でなくて、人間だったら肩代わりは不可能なのかな。

■作品(制作)は「表現されたもの(表現すること)」に留まらないから、表現と言う行為と作品(制作)は同等じゃない。表現は制作行為の一部だし、表現されたものは作品の一部。

■自分がその場所で傷付か(けられ)ないことは、他の人がその場所で傷付か(けられ)ないことを保証している訳じゃないのに、自分の安全な場所は他人にも安全な場所だと思い込むことはある。

■ヴィトゲンシュタインの「語りえぬものについては沈黙を」の「沈黙」が制作なのかもしれない。

■他者承認て「他人に認められる」と言うことを根拠にした、「『他者経由』の『自己承認』」だと思うのだけど、違うのかな。
根拠が外部(他者)化されることで「承認『される/されない』」(批評)の精度が担保される、と言うことがあるのだ思うけど、「その『精度』は、ただ『外部化』されるだけで本当に担保されるのか?」と言う疑問が抜けている気がする。
もとより「多数の人に受け入れられる」と言うことがゴールなら問題はないのだけど。
それならば、それを支持してくれる人の数で測れるけれど、それ以外がゴール場合そんなに有効ではないと思う。
批評の中に他者性(自分にはない視点)が現れるのは、多数の人の目に触れる方が確率が上がるし、それをわざわざ告げてくれる親切な人の存在の増える確率も上がる。
しかし、同時に打算的な批評も増える。

■ただ「気に入らない」と言うのは対象のことを知らなくて言えるものだけれど、具体的に批判するには対象のことをちゃんと知らなければできない。
だから「批判」と「気に入らない」はある意味で逆と言えるのかも知れない。
「ただ『気に入らない』と言うだけで、或モノを『嫌い』と表明することは酷い」等と、ただ気に入らないだけで「気に入らない」と表明する事を抑圧すると、「ただ気に入らないモノ」を「嫌い」と言うために「嫌いな理由」を捏造しなければならなくなる。その時、概して「嫌い」であることを正当化する様な方便が生まれる。
そんな錯誤帰属的な「方便」を、第三者が鵜呑みにして、「ただある人があるものをだだ気に入らない」と言うことだけだった事実が、ねじ曲って、「あるもの」の「捏造された『悪いところ』」が伝わってしまうこともある。

2014-12-09(Tue)

いろいろ

■何となくあった「どうとでも言える」に対する違和感の正体は、「どうとでも言える」と発した側が肝心の「どうとでも言える」から免れている様な態度であることが多い気がすることからきていることがわかった。
「どうとでも言える」は相手の言い方も自分の言い方もどんな言い方も等価になる(当てはまる)※筈なのに、自分の言ったものを有効のままに(棚上げして)、一方的に相手の言い方だけを「どうとでも言える」によって無効にしようとしている気配を感じる。
別に「どうとでも言える」に限らず、こんな様な魔法の言葉(都合的に使われる言葉)は世の中に溢れてる訳だけれども。やっかいなのは使ってる本人(自分を含め)が魔法の言葉と自覚せずに、道理が通ってると思いながら使っているところ。

※常に内容が問われるべきで「どうとでも言える」で等価になるとは思っていないけど、百歩譲って等価になるとしたら

■人は救いを求めていても自分が何に救われるかすらわかっていないんじゃないか。「こうなれば私は救われる」と言うものが明確にあったとしても、それは「求める救い」と「願望」が混同されていることがある。「こうなれば」が実現されたとしても、そのとき実際に「救われた」と思えるかは別の話。
そして、考えもしなかったものに救われることもある。
人の意識に上がってきた時点で様々なモノが混同されている、その混同こそ自分を(無意識に)救った痕跡なのかも知れない。

■「他者のことはわからない」と言うこと(前提)から展開されるものがニヒリズム(虚無主義)しかない、と言う「想像力の狭さ」が「コミュニケーション至上主義」の正体なんじゃないか。

■展示観るとき、できたら誰もいないところで観たいと思うことはよくあるけれど、そのために作品を購入するって動機の人もいるんだろうな。

■性欲も、恋愛欲求も、生殖本能の一部なのに、性欲は男女で非対称性が顕著なのに、恋愛欲求は対称な位な気がするけど、男の恋愛欲求は性欲のメタファーだったりするみたいな見誤るカラクリでもあるのか。
そもそも恋愛欲求と性欲に明確な線引きが可能かどうかわからないけれど。

■二項対立と思っているものが、グラデーション的(地続き)な「差」でしかないことはよくあるし、また同じモノの別の側面だったりすることもある。

■日本人にとって西洋人が提示した洋和(亜)折衷がただの不協和音に終わってることが少なくない様に、西洋人にとって、日本人が提示する、和洋折衷がただの不協和音に終わっていることも少なくないんだと思う。と言うより、これはもしかしたら、一方の文化の眼差しから見た成功は、もう一方の文化の目差しからは失敗に見えるものなんじゃないか。

■例えば、僕は「意中の特定個人を射止めることが重要なのであって、その個人以外の不特定多数に好かれることは意味がない」と「モテる」ことに価値を見出してないけれど、それは、まず「自分がモテないこと」が先にあって、その「自分」を救うためにモテることに価値がなくなる(ないように見える)ようロジックを組み立てているのか、僕がモテない事と、そのロジックは独立で、ロジックは(僕の中で)整合性に支えられているのかは分かり様もないことで、続いて僕が、モテることに意味がないと思っているのは、後者のロジックの整合性に依拠したものと思っていても、その意識の当事者の自分がそう思うからと言う根拠は「思い込み」以上のモノではない。
そもそも道理の整合性のあることがそこまで優先されていることなのか(生存的に)が疑わしい。
「私」というモノが意識圏内だけで駆動しているモノならば、例えば「リンゴを取ろう」と思うのにも「『リンゴを取ろう』と思おう」と言う「意図の意図」がなければならないけれど「意図の意図」はない。
それどころか、最初の「リンゴを取ろう」すら思わずにリンゴを手に取ることの方が多いと思う。
視界には本来そこになければならない(黒いなり白いなりなの)「外」がなく切れ目がない様に補完されている。その様に、意識の外も意識は「ある」とか「ない」とかも意識できないように取り繕われている。

2014-12-08(Mon)

不羈魂邂闢

総合表現イベント(とでも呼んだらいいのか)不羈魂邂闢に行ってきました。
様々な表現(「表現」という書き表し方は好きじゃないけど)が垣根なく催されるイベントであった訳だけれども、他のジャンルの感想は他の人に任せて、催しのなかの一つ、ライブペイント(を含むパフォーマンス)についての感想を書きたいと思います。

パフォーマーは、MADBLAST HIRO×Takuya sumiと言う方々。
パフォーマンスの内容は、リジュリドゥと言う見慣れない管楽器の演奏(Takuya sumi)と共にライブペイント(MADBLAST HIROさん)が行われて、更にそこへプロジェクションマッピング(YAMさん)が施される。
ライブペイントの内容は、段ボールで作られた四角柱を支持体に、上面と底面を除いた四つの側面にアクリル絵具か、臭いがしなかったので水性のペンキ(とにかく多分アクリル樹脂系)を使ってペインティングしていくものだった。
ペインティングの内容はタトゥーの様な(模様と言ってよいのか)柄を、まず白の絵の具で描いてゆき、それを終えると重ねるように黒の絵の具でも描いてゆくものだ、四角柱を回して周回するように描かれていった。
そこにプロジェクションマッピングが行われてたのだけれども、プロジェクションマッピングは対象に投影された映像を(も含めて)観るものだが、当然、映像(光の反射)と同時に影も顕在することになる。
パフォーマンスはステージ前に下げられた幕の前で行われていて、プロジェクションマッピングの投射によってその幕に出来た四角柱の影には、ペインターが描いても描いても何も影響しない(厳密に言えば絵の具の盛り上がりが影に影響しているのだろうけれど、目視はできなかった)。
つまり、立体物(四角柱)の表面に絵の具によるペインティングや、投射によるマッピングによって平面的な作用があって、そこにあるものには平面性と立体性と言うバラバラのものが兼ねられていたのだけど、そこで一旦曖昧になった平面(ペインティング、マッピング)と立体(四角柱)の境界線が、光(影)によって立体だけが抽出され、再び明確に引き直されていた。と、言う面白い構造が生まれていた。
あと、描くのを見ていて思ったのは柄の外枠、輪郭線を引く(ドローイング)のはライブ(即興)的なのに対して外枠の中を塗る(ペインティング)のは常に予定調和的であった(ただ結果的にそうなっただけかもだけど)。
もしそうであれば、ライブだったのは、ペインティング(塗り)ではなくてドローイング(線画、下絵)だったのかもしれない。即興と予定調和が同時に存在していて面白かった。
以上、パフォーマンスの感想でした。

2014-10-24(Fri)

いろいろ

■世界の明瞭さ(自明性)は思い込みよってに支えられているから、専門的なことを知って思い込みが解かれていくほど世界はカオスになっていく。
専門化と言うのが抽象化ならカオスになっていくのは当たり前なのか。
具象の最大単位が世界だったとしたら、そこから抽象的把握をしていってる。
でも「世界」と言われて思い浮かべるイメージは抽象的だ。
そもそも、人(人に限らすどの動物も)の感覚器官では抽象的認識しかできない。
人は世界と抽象的にしか関われないのかも。

■格言、名言、ことわざ、教訓って、例えば「人間性は顔に表れる」と「人を外見で判断してはいけない」みたいに背反する言葉が残ってるけれど、こう言うのは状況や立場に合わせた都合的な引用ができて「そう言う需要がある」から残ってるんだろうなって思ってしまう時がある。

■西洋美術の文脈でなければ、売れなければ、有名にならなければ意味がない、と言う狭隘な美術観に出合った「絵を描くのが好きで、小さな頃から描いていた人」が、絵を描くのをやめるのを見るのは気持ちよくはないな。
売れるとか有名になると言うもののために、既に手に入れている「絵を描くのが楽しい」と言う幸せを捨ててしまわなくてもいいのにって思ってしまう。

■作者と作品の関係を親子関係になぞらえることにどれ程の妥当性があるか疑問だけれども、作品のコンセプトを考えるのは、親が子にどんな風に育ってほしいか、またタイトルを考えるのは、その想いを込めて名付けることのような楽しさかも知れない。そして、親の想い(作者の意図)を越えて(裏切って)自分の手を離れて行くのは喜び(または悲しみ)なのかも知れない。
そうすると、コンセプトを立てない(少なくとも意識的には)主義の作家は、作品に愛情(手間暇)さえ注げ(かけれ)ばいい子に育ってくれると言う親のスタンスなのかも。
こんな例えは不謹慎かも知れないけれど、作者の意図に作品を閉じ込めようと、過剰にコントロールしようとする(できると思う)のはアビュース(乱用、虐待)なのかも知れない。
また、作品(子供)を自分の存在証明のように扱うこともアビュースの一つとも取れる。
まあ、作品は子供ではないし、作者も親ではないのだから言葉遊びに過ぎないのだけど。

■辛さの表出のし方は多様だろうけど、たぶん僕は直截的なモノしか分からないだろうし、わかっていても気に入らないものは、無意識的であれ意識的であれ許容してないだろう。
同じモノの別の表れだのにだ。
そもそも「いい人/悪い人」が、自分が「気に入る/気に入らない」のメタファーになってるのに、そんなんでどうやって人を救うなんてことができるのか。
「『いい人として振る舞わないといざと言うとき誰も助けてくれないよ』と言う教訓」=「『(私が)気に入らないやつは村八分だ』と言う脅し」だ。
救済の「現場」で活動する人ほど嫌なやつ(気に入らない人)を救うことが困難。
だから現場でないところも大事。
いい人だけが救われる世の中になるなら、人間は理性的であると言う使命に失敗したと言うことになる。

■「正義ならば暴力が許される」と言う教えは、「人は常に自分を正義(正当)化している」と言うことがわかってない。
寧ろその教えが暴力を正当化させている。

■「意識(主体)」は「自己救済の痕跡」と言う側面が大きい気がしている。

■アートは、未知(他者性)を既知に落とし込んで(所有化して)表現したものではなくて、未知(他者性)を未知(他者性)のまま生起させることを出来るのがアートで、「芸術とは何か?」と言う問いは、芸術(作品)の所有化のプロセスだから、その解はアートのアート性を去勢した解になる。
これgenbaken.com/contents/discu…の冒頭の解釈。

■「自分を大切にする」ことが「思慮深くなること」ならば、「好きなように振る舞う(自分の衝動に従う)」事と「自分を大切にする」事は対立することが多いのかも。
違う言い方をすると、「一見『自分を殺す』と言われる様なこと(しかし他人の為に自分を殺すのではないけど)」と、「自分を大切にすること」は両立する、とも言える。

■主体が客体(意味をつけられる以前のもの、意味をつけられる対象)に意味を与えているのならば、「意味」の本質は「後付け」と言えるし、主体が客体のアフォーダンスを受け取っているのなら、意味は主体に先駆けて在ると言える。
主客未分観http://t.co/ocVcMxjbss は難しいから、何となくの把握なんだけれども一番しっくり来る。

■コミュニケーション能力が「配慮」ならば、有償の配慮は配慮ではないので、その言葉は常に片道だけのもの。

■夕日や虹、雪景色と言う自然や宝石や夜景を綺麗だなーと思うのは日常的感覚(または、その延長)で、アートは日常的感覚から逸脱した感覚を楽しむものだから「人がどんなアートをつくっても自然には敵わない」と言う類いの話は(個人的には)ズレてると思う。
「人がどんなアートをつくっても自然には敵わない」には、「アートは何かの『模倣』」と言うアート観の片鱗が伺える。
そして、自然の美しさに立ち向う美術観は、何となくイカロスの話を彷彿させて、それはそれで儚くていいなと思った。
プロフィール

鳥はとびつつ老いてゆくのみ

Author:鳥はとびつつ老いてゆくのみ
かく撃ち抜かれたる兵士の眼

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